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最高裁判所大法廷 昭和43年(あ)2780号 判決

主文

本件各上告を棄却する。

理由

弁護人佐藤義弥ほか三名連名の上告趣意第一点、第三点、第五点について。

所論は、原判決が国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下、国公法という。)九八条五項および一一〇条一項一七号の各規定を憲法二八条に違反しないものと判断し、また、国公法一一〇条一項一七号を憲法二一条、一八条に違反しないものとして、これを適用したのは、憲法の右各条項に違反する旨を主張する。

一よつて考えるに、憲法二八条は、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利」、すなわちいわゆる労働基本権を保障している。この労働基本権の保障は、憲法二五条のいわゆる生存権の保障を基本理念とし、憲法二七条の勤労の権利および勤労条件に関する基準の法定の保障と相まつて勤労者の経済的地位の向上を目的とするものである。このような労働基本権の根本精神に即して考えると、公務員は、私企業の労働者とは異なり、使用者との合意によつて賃金その他の労働条件が決定される立場にないとはいえ、勤労者として、自己の労務を提供することにより生活の資を得ているものである点において一般の勤労者と異なるところはないから、憲法二八条の労働基本権の保障は公務員に対しても及ぶものと解すべきである。ただ、この労働基本権は、右のように、勤労者の経済的地位の向上のための手段として認められたものであつて、それ自体が目的とされる絶対的なものではないから、おのずから勤労者を含めた国民全体の共同利益の見地からする制約を免れないものであり、このことは、憲法一三条の規定の趣旨に徴しても疑いのないところである(この場合、憲法一三条にいう「公共の福祉」とは、勤労者たる地位にあるすべての者を包摂した国民全体の共同の利益を指すものということができよう。)。以下この理を、さしあたり、本件において問題となつている非現業の国家公務員(非現業の国家公務員を以下単に公務員という。)について詳述すれば、次のとおりである。

(一)  公務員は、私企業の労働者と異なり、国民の信託に基づいて国政を担当する政府により任命されるものであるが、憲法一五条の示すとおり、実質的には、その使用者は国民全体であり、公務員の労務提供義務は国民全体に対して負うものである。もとよりこのことだけの理由から公務員に対して団結権をはじめその他一切の労働基本権を否定することは許されないのであるが、公務員の地位の特殊性と職務の公共性にかんがみるときは、これを根拠として公務員の労働基本権に対し必要やむをえない限度の制限を加えることは、十分合理的な理由があるというべきである。けだし、公務員は、公共の利益のために勤務するものであり、公務の円滑な運営のためには、その担当する職務内容の別なく、それぞれの職場においてその職責を果すことが必要不可欠であつて、公務員が争議行為に及ぶことは、その地位の特殊性および職務の公共性と相容れないばかりでなく、多かれ少なかれ公務の停廃をもたらし、その停廃は勤労者を含めた国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、またはその虞れがあるからである。

次に公務員の勤務条件の決定については、私企業における勤労者と異なるものがあることを看過することはできない。すなわち利潤追求が原則として自由とされる私企業においては、労働者側の利潤の分配要求の自由も当然に是認せられ、団体を結成して使用者と対等の立場において団体交渉をなし、賃金その他の労働条件を集団的に決定して協約を結び、もし交渉が妥結しないときは同盟罷業等を行なつて解決を図るという憲法二八条の保障する労働基本権の行使が何らの制約なく許されるのを原則としている。これに反し、公務員の場合は、その給与の財源は国の財政とも関連して主として税収によつて賄われ、私企業における労働者の利潤の分配要求のごときものとは全く異なり、その勤務条件はすべて政治的、財政的、社会的その他諸般の合理的な配慮により適当に決定されなければならず、しかもその決定は民主国家のルールに従い、立法府において論議のうえなされるべきもので、同盟罷業等争議行為の圧力による強制を容認する余地は全く存しないのである。これを法制に即して見るに、公務員については、憲法自体がその七三条四号において「法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること」は内閣の事務であると定め、その給与は法律により定められる給与準則に基づいてなされることを要し、これに基づかずにはいかなる金銭または有価物も支給することはできないとされており(国公法六三条一項参照)、このように公務員の給与をはじめ、その他の勤務条件は、私企業の場合のごとく労使間の自由な交渉に基づく合意によつて定められるものではなく、原則として、国民の代表者により構成される国会の制定した法律、予算によつて定められることとなつているのである。その場合、使用者としての政府にいかなる範囲の決定権を委任するかは、まさに国会みずからが立法をもつて定めるべき労働政策の問題である。したがつて、これら公務員の勤務条件の決定に関し、政府が国会から適法な委任を受けていない事項について、公務員が政府に対し争議行為を行なうことは、的はずれであつて正常なものとはいいがたく、もしこのような制度上の制約にもかかわらず公務員による争議行為が行なわれるならば、使用者としての政府によつては解決できない立法問題に逢着せざるをえないこととなり、ひいては民主的に行なわれるべき公務員の勤務条件決定の手続過程を歪曲することともなつて、憲法の基本原則である議会制民主主義(憲法四一条、八三条等参照)に背馳し、国会の議決権を侵す虞れすらなしとしないのである。

さらに、私企業の場合と対比すると、私企業においては、極めて公益性の強い特殊のものを除き、一般に使用者にはいわゆる作業所閉鎖(ロツクアウト)をもつて争議行為に対抗する手段があるばかりでなく、労働者の過大な要求を容れることは、企業の経営を悪化させ、企業そのものの存立を危殆ならしめ、ひいては労働者自身の失業を招くという重大な結果をもたらすことともなるのであるから、労働者の要求はおのずからその面よりの制約を免れず、ここにも私企業の労働者の争議行為と公務員のそれとを一律同様に考えることのできない理由の一が存するのである。また、一般の私企業においては、その提供する製品または役務に対する需給につき、市場からの圧力を受けざるをえない関係上、争議行為に対しても、いわゆる市場の抑制力が働くことを必然とするのに反し、公務員の場合には、そのような市場の機能が作用する余地がないため、公務員の争議行為は場合によつては一方的に強力な圧力となり、この面からも公務員の勤務条件決定の手続をゆがめることとなるのである。

なお付言するに、労働関係における公務員の地位の特殊性は、国際的にも一般に是認されているところであつて、現に、わが国もすでに批准している国際労働機構(ILO)の「団結権及び団体交渉権についての原則の適用に関する条約」(いわゆるILO九八号条約)六条は、「この条約は、公務員の地位を取り扱うものではなく、また、その権利又は分限に影響を及ぼすものと解してはならない。」と規定して、公務員の地位の特殊性を認めており、またストライキの禁止に関する幾多の案件を審議した、同機構の結社の自由委員会は、国家公務員について「大多数の国において法定の勤務条件を享有する公務員は、その雇用を規制する立法の通常の条件として、ストライキ権を禁止されており、この問題についてさらに審査する理由がない。」とし(たとえば、六〇号事件)、わが国を含む多数の国の労働団体から提訴された案件について、この原則を確認しているのである。

以上のように、公務員の争議行為は、公務員の地位の特殊性と勤労者を含めた国民全体の共同利益の保障という見地から、一般私企業におけるとは異なる制約に服すべきものとなしうることは当然であり、また、このことは、国際的視野に立つても肯定されているところなのである。

(二)  しかしながら、前述のように、公務員についても憲法によつてその労働基本権が保障される以上、この保障と国民全体の共同利益の擁護との間に均衡が保たれることを必要とすることは、憲法の趣意であると解されるのであるから、その労働基本権を制限するにあたつては、これに代わる相応の措置が講じられなければならない。そこで、わが法制上の公務員の勤務関係における具体的措置が果して憲法の要請に添うものかどうかについて検討を加えてみるに、

(イ)  公務員たる職員は、後記のように法定の勤務条件を享受し、かつ、法律等による自身保障を受けながらも、特殊の公務員を除き、一般に、その勤務条件の維持改善を図ることを目的として職員団体を結成すること、結成された職員団体に加入し、または加入しないことの自由を保有し(国公法九八条二項、前記改正後の国家公務員法(以下、単に改正国公法という。)一〇八条の二第三項)、さらに、当局は、登録された職員団体から職員の給与、勤務時間その他の勤条務件に関し、およびこれに付帯して一定の事項に関し、交渉の申入れを受けた場合には、これに応ずべき地位に立つ(国公法九八条二項、改正国公法一〇八条の五第一項)ものとされているのであるから、利企業におけるような団体協約を締結する権利は認められないとはいえ、原則的にはいわゆる交渉権が認められており、しかも職員は、右のように、職員団体の構成員であること、これを結成しようとしたこと、もしくはこれに加入しようとしたことはもとより、その職員団体における正当な行為をしたことのために当局から不利益な取扱いを受けることがなく(国公法九八条三項、改正国公法一〇八条の七)、また、職員は、職員団体に属していないという理由で、交渉事項に関して不満を表明し、あるいは意見を申し出る自由を否定されないこととされている(国公法九八条二項、改正国公法一〇八条の五第九項)。ただ、職員は、前記のように、その地位の特殊性と職務の公共性とにかんがみ、国公法九八条五項(改正国公法九八条二項)により、政府が代表する使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為または政府の活動能率を低下させる怠業的行為をすることを禁止され、また、何人たるを問わず、かかる違法な行為を企て、その遂行を共謀し、そそのかし、もしくはあおつてはならないとされている、そしてこの禁止規定に違反した職員は、国に対し国公法その他に基づいて保有する任命または雇用上の権利を主張できないなど行政上の不利益を受けるのを免れない(国公法九八条六項、改正国公法九八条三項)。しかし、その中でも、単にかかる争議行為に参加したにすぎない職員については罰則はなく、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、もしくはあおり、またはこれらの行為を企てた者についてだけ罰則が設けられているのにとどまるのである(国公法、改正国公法各一一〇条一項一七号)。

以上の関係法規から見ると、労働基本権につき前記のような当然の制約を受ける公務員に対しても、法は、国民全体の共同利益を維持増進することとの均衡を考慮しつつ、その労働基本権を尊重し、これに対する制約、とくに罰則を設けることを、最少限度にとどめようとしている態度をとつているものと解することができる。そして、この趣旨は、いわゆる全逓中郵事件判決の多数意見についても指摘されたところである(昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九一二頁参照)。

(ロ)  このように、その争議行為等が、勤労者をも含めた国民全体の共同利益の保障という見地から制約を受ける公務員に対しても、その生存権保障の趣旨から、法は、これらの制約に見合う代償措置として身分、任免、服務、給与その他に関する勤務条件についての周到詳密な規定を設け、さらに中央人事行政機関として準司法機関的性格をもつ人事院を設けている。ことに公務員は、法律によつて定められる給与準則に基づいて給与を受け、その給与準則には俸給表のほか法定の事項が規定される等、いわゆる法定された勤務条件を享有しているのであつて、人事院は、公務員の給与、勤務時間その他の勤務条件について、いわゆる情勢適応の原則により、国会および内閣に対し勧告または報告を義務づけられている。そして、公務員たる職員は、個別的にまたは職員団体を通じて俸給、給料その他の勤務条件に関し、人事院に対しいわゆる行政措置要求をし、あるいはまた、もし不利益な処分を受けたときは、人事院に対し審査請求をする途も開かれているのである。このように、公務員は、労働基本権に対する制限の代償として、制度上整備された生存権擁護のための関連措置による保障を受けているのである。

(三)  以上に説明したとおり、公務員の従事する職務には公共性がある一方、法律によりその主要な勤務条件が定められ、身分が保障されているほか、適切な代償措置が講じられているのであるから、国公法九八条五項がかかる公務員の争議行為およびそのあおり行為等を禁止するのは、勤労者をも含めた国民全体の共同利益の見地からするやむをえない制約というべきであつて、憲法二八条に違反するものではないといわなければならない。

二次に、国公法一一〇条一項一七号は、公務員の争議行為による業務の停廃が広く国民全体の共同利益に重大な障害をもたらす虞れのあることを考慮し、公務員たると否とを問わず、何人であつてもかかる違法な争議行為の原動力または支柱としての役割を演じた場合については、そのことを理由として罰則を規定しているのである。すなわち、前述のように、公務員の争議行為の禁止は、憲法に違反することはないのであるから、何人であつても、この禁止を侵す違法な争議行為をあおる等の行為をする者は、違法な争議行為に対する原動力を与える者として、単なる争議参加者にくらべて社会的責任が重いのであり、また争議行為の開始ないしはその遂行の原因を作るものであるから、かかるあおり等の行為者の責任を問い、かつ、違法な争議行為の防遏を図るため、その者に対しとくに処罰の必要性を認めて罰則を設けることは、十分に合理性があるものということができる。したがつて、国公法一一〇条一項一七号は、憲法一八条、憲法二八条に違反するものとはとうてい考えることができない。

三さらに、憲法二一条との関係を見るに、原判決が罪となるべき事実として確定したところによれば、被告人らは、いずれも農林省職員をもつて組織する全農林労働組合の役員であつたところ、昭和三三年一〇月八日内閣が警察官職務執行法(以下、警職法という)の一部を改正する法律案を衆議院に提出するや、これに反対する第四次統一行動の一環として、原判示第一の所為のほか、同第二のとおり、同年一一月五日午前九時ころから同一一時四〇分ころまでの間、農林省の職員に対し、同省正面玄関前の「警職法改悪反対」職場大会に参加するよう説得、慫慂したというのであるから、被告人らの所為ならびにそのあおつた争議行為すなわち農林省職員の職場離脱による右職場大会は、警職法改正反対という政治的目的のためになされたものというべきである。

ところで、憲法二一条の保障する表現の自由といえども、もともと国民の無制約な恣意のままに許されるものではなく、公共の福祉に反する場合には合理的な制限を加えうるものと解すべきところ(昭和二三年(れ)第一三〇八号同二四年五月一八日大法廷判決・刑集三巻六号八三九頁、昭和二四年(れ)第四九八号同二七年一月九日大法廷判決・刑集六巻一号四頁、昭和二六年(あ)第三八七五号同三〇年一一月三〇日大法廷判決・刑集九巻一二号二五四五頁、昭和三七年(あ)第八九九号同三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五六一頁、昭和三九年(あ)第三〇五号同四四年一〇月一五日大法廷判決・刑集二三巻一〇号一二三九頁、昭和四二年(あ)第一六二六号同四五年六月一七日大法廷判決・刑集二四巻六号二八〇頁参照)、とくに勤労者なるがゆえに、本来経済的地位向上のための手段として認められた争議行為をその政治的主張貫徹のための手段として使用しうる特権をもつものとはいえないから、かかる争議行為が表現の自由として特別に保障されるということは、本来ありえないものというべきである。そして、前記のように、公務員は、もともと合憲である法律によつて争議行為をすること自体が禁止されているのであるから、勤労者たる公務員は、かかる政治的目的のために争議行為をすることは、二重の意味で許されないものといわなければならない。してみると、このような禁止された公務員の違法な争議行為をあおる等の行為をあえてすることは、それ自体がたとえ思想の表現たるの一面をもつとしても、公共の利益のために勤務する公務員の重大な義務の懈怠を慫慂するにほかならないのであつて、結局、国民全体の共同利益に重大な障害をもたらす虞れがあるものであり、憲法の保障する言論の自由の限界を逸脱するものというべきである。したがつて、あおり等の行為を処罰すべきものとしている国公法一一〇条一項一七号は、憲法二一条に違反するものということができない。

以上要するに、これらの国公法の各規定自体が違憲であるとする所論は、その理由がなく、したがつて、原判決が国公法の右各規定を本件に適用したことを非難する論旨も、採用することができない。

同第二点について。

所論は、憲法二八条、三一条違反をいうが、原判決に対する具体的論難をなすものではなく、適法な上告理由にあたらない。

同第四点について。

所論は、要するに、国公法一一〇条一項一七号は、その規定する構成要件、とくにあおり行為等の概念が不明確であり、かつ、争議行為の実行が不処罰であるのに、その前段階的行為であるあおり行為等のみを処罰の対象としているのは不合理であるから、憲法三一条に違反し、これを適用した原判決も違法であるというのである。

しかしながら、違法な争議行為に対する原動力または支柱となるものとして罰則の対象とされる国公法一一〇条一項一七号所定の各行為のうち、本件において問題となつている「あおり」および「企て」について考えるに、ここに「あおり」とは、国公法九八条五項前段に定める違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えること(昭和三三年(あ)第一四一三号同三七年二月二一日大法廷判決・刑集一六巻二号一〇七頁参照)をいい、また、「企て」とは、右のごとき違法行為の共謀、そそのかし、またはあおり行為の遂行を計画準備することであつて、違法行為発生の危険性が具体的に生じたと認めうる状態に達したものをいうと解するのが相当である(いずれの場合にせよ、単なる機械的労務を提供したにすぎない者、またはこれに類する者は含まれない。)。してみると、国公法一一〇条一項一七号に規定する犯罪構成要件は、所論のように、内容が漠然としているものとはいいがたく、また違法な行為につき、その前段階的行為であるあおり行為等のみを独立犯として処罰することは、前述のとおりこれらの行為が違法行為に原因を与える行為として単なる争議への参加にくらべ社会的責任が重いと見られる以上、決して不合理とはいいがたいから、所論違憲の主張は理由がない。

原判決の確定した罪となるべき事実によれば、被告人らは、前記警職法改正に反対する第四次統一行動の一環として全農林労働組合会計長ほか同組合中央執行委員多数と共謀のうえ、(一)昭和三三年一〇月三〇日の深夜から同年一一月二日にかけ、同組合総務部長をして、同組合各県(大阪府および北海道を含む。)本部宛てに、「組合員は警職法改悪反対のため所属長の承認がなくても、一一月五日は正午出勤の行動に入れ、(ただし、一部特殊職場は勤務時間内一時間以上の職場大会を実施せよ。)」なる趣旨の全農林名義の電報指令第六号並びに各県本部(大阪府および北海道のほか東京を含む。)、支部、分会各委員長宛てに、同趣旨の全農林労働組合中央闘争委員長鶴園哲夫名義の文書指令第六号を発信または速達便をもつて発送させ、(二)同月五日午前九時ころから同一一時四〇分ころまでの間、農林省について、庁舎各入口に人垣を築いてピケツトを張り、ことに正面玄関の扉を旗竿等をもつて縛りつけ、また裏玄関の内部に机、椅子等を積み重ねるなどした状況のもとに、同省職員約二五〇〇名を入庁させないようにしむけたうえ、同職員らに対し、同省正面玄関前の「警職法改悪反対」職場大会に直ちに参加するように反覆して申し向けて説得し、勤務時間内二時間を目標として開催される右職場大会(実際の開催時間は午前一〇時ころから同一一時四〇分ころまで、正規の出勤時間は同九時二〇分。参加人員は二〇〇〇名余。)に参加方を慫慂したというのであるから、右(一)の各指令の発出行為は、全国の傘下組合員である国家公務員たる農林省職員に対し、争議行為の遂行方をあおることを客観的に計画準備したものにほかならず、また、右(二)の状況下における反覆説得は、国公法九八条五項前段に定める違法行為を実行させる目的をもつて多数の右職員に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えたものというべく、原判決が右(一)につき争議行為の遂行をあおることを企てたとし、(二)につき争議行為の遂行をあおつた行為にあたるとしたのは、正当である。

同第六点について。

所論は、原判決は国公法九八条五項、一一〇条一項一七号の解釈、適用を誤り、所論引用の各高等裁判所の判例と相反する判断をしたものであるというのである。

よつて考えるに、原判決が「同法一一〇条一項一七号の『あおる』行為等の指導的行為は争議行為の原動力、支柱となるものであつて、その反社会性、反規範性等について争議の実行行為そのものより違法性が強いと解し得るのであるから、憲法違反となる結果を回避するため、とくに『あおる』行為等の概念を縮小解釈しなければならない必然性はなく、またその証拠も不十分である」としたうえ、同条項一七号所定の「指導的行為の違法性は、その目的、規模、手段方法(態様)、その他一切の付随的事情に照らし、刑罰法規一般の予定する違法性、すなわち可罰的違法性の程度に達しているものでなければならず、また、これらの指導的行為は、刑罰を科するに足る程度の反社会性、反規範性を具有するものに限る」旨判示し、何らいわゆる限定解釈をすることなく、被告人らの本件行為に対し国公法の右規定を適用していることは、所論のとおりである。これに対し、所論引用の大阪高等裁判所昭和四三年三月二九日判決、福岡高等裁判所昭和四二年一二月一八日各判決、同裁判所昭和四三年四月一八日判決は、右国公法一一〇条一項一七号または地方公務員法六一条四号については、あおり行為あるいはその対象となる争議行為またはその双方につき、限定的に解釈すべきものであるとの見解をとつており、そして、これらの判決は原判決に先だつて言い渡されたものであるから、原判決は、右各高等裁判所の判例と相反する判断をしたこととなり、その言渡当時については、刑訴法四〇五条三号後段に規定する、最高裁判所の判例がない場合に、控訴裁判所たる高等裁判所の判例に相反する判断をしたことになるといわなければならない。

しかしながら、国公法九八条五項、一一〇条一項一七号の解釈に関して、公務員の争議行為等禁止の措置が違憲ではなく、また、争議行為をあおる等の行為に高度の反社会性があるとして罰則を設けることの合理性を肯認できることは前述のとおりであるから、公務員の行なう争議行為のうち、同法によつて違法とされるものとそうでないものとの区別を認め、さらに違法とされる争議行為にも違法性の強いものと弱いものとの区別を立て、あおり行為等の罪として刑事制裁を科されるのはそのうち違法性の強い争議行為に対するものに限るとし、あるいはまた、あおり行為等につき、争議行為の企画、共謀、説得、慫慂、指令等を争議行為にいわゆる通常随伴するものとして、国公法上不処罰とされる争議行為自体と同一視し、かかるあおり等の行為自体の違法性の強弱または社会的許容性の有無を論ずることは、いずれも、とうてい是認することができない。けだし、いま、もし、国公法一一〇条一項一七号が、違法性の強い争議行為を違法性の強いまたは社会的許容性のない行為によりあおる等した場合に限つてこれに刑事制裁を科すべき趣旨であると解するときは、いうところの違法性の強弱の区別が元来はなはだ曖昧であるから刑事制裁を科しうる場合と科しえない場合との限界がすこぶる明確性を欠くこととなり、また同条項が争議行為に「通常随伴」し、これと同一視できる一体不可分のあおり等の行為を処罰の対象としていない趣旨と解することは、一般に争議行為が争議指導者の指令により開始され、打ち切られる現実を無視するばかりでなく、何ら労働基本権の保障を受けない第三者がした、このようなあおり等の行為までが処罰の対象から除外される結果となり、さらに、もしかかる第三者のしたあおり等の行為は、争議行為に「通常随伴」するものでないとしてその態様のいかんを問わずこれを処罰の対象とするものと解するときは、同一形態のあおり等をしながら公務員のしたものと第三者のしたものとの間に処罰上の差別を認めることとなつて、ただに法文の「何人たるを問わず」と規定するところに反するばかりでなく、衡平を失するものといわざるをえないからである。いずれにしても、このように不明確な限定解釈は、かえつて犯罪構成要件の保障的機能を失わせることとなり、その明確性を要請する憲法三一条に違反する疑いすら存するものといわなければならない。

なお、公務員の団体行動とされるもののなかでも、その態様からして、実質が単なる規律違反としての評価を受けるにすぎないものについては、その煽動等の行為が国公法一一〇条一項一七号所定の罰則の構成要件に該当しないことはもちろんであり、また、右罰則の構成要件に該当する行為であつても具体的事情のいかんによつては法秩序全体の精神に照らし許容されるものと認められるときは、刑法上違法性が阻却されることもありうることはいうまでもない。もし公務員中職種と職務内容の公共性の程度が弱く、その争議行為が国民全体の共同利益にさほどの障害を与えないものについて、争議行為を禁止し、あるいはそのあおり等の行為を処罰することの当を得ないものがあるとすれば、それらの行為に対する措置は、公務員たる地位を保有させることの可否とともに立法機関について慎重に考慮すべき立法問題であると考えられるのである。

いわゆる全司法仙台事件についての当裁判所の判決(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号六八五頁)は、本判決について判示したところに抵触する限度で、変更を免れないものである。

そうであるとすれば、原判決が被告人らの前示行為につき国公法九八条五項、一一〇条一項一七号を適用したことは結局正当であつて、これと異なる見解のもとに原判決に法令違反があるとする所論は採用することができず、また、この点に関する原審の判断と抵触する前記各高等裁判所の判例は、これを変更すべきものであつて、所論は、原判決破棄の理由とならない。

同第七点、第八点、第九点について。

所論は、いずれも事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

同第一〇点について。

所論は、要するに、公務員の政治的目的に出た争議行為も憲法二八条によつて保障されることを前提とし、原判決が、いわゆる「政治スト」は、憲法二八条に保障された争議行為としての正当性の限界を逸脱するものとして刑事制裁を免れないと判断したのは、憲法二一条、二八条、三一条の解釈を誤つたものである旨主張する。

しかしながら、公務員については、経済目的に出たものであると、はたまた、政治目的に出たものであるとを問わず、国公法上許容された争議行為なるものが存在するとすることは、とうていこれを是認することができないのであつて、かく解釈しても憲法に違反するものではないから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、適法な上告理由にあたらない(なお、私企業の労働者たると、公務員を含むその他の勤労者たるとを問わず、使用者に対する経済的地位の向上の要請とは直接関係があるとはいえない警職法の改正に対する反対のような政治的目的のために争議行為を行なうがごときは、もともと憲法二八条の保障とは無関係なものというべきである。現に国際労働機構(ILO)の「結社の自由委員会」は、警職法に関する申立について、「委員会は、改正法案は、それが成立するときは、労働組合権を侵害することとなることを立証するに十分な証拠を申立人は提出していないと考えるので、日本政府の明確な説明を考慮して、これらの申立については、これ以上審議する必要がないと決定するよう理事会に勧告する。」としている(一七九事件第五四次報告一八七項)。国際労働機構の「日本における公共部門に雇用される者に関する結社の自由調査調停委員会報告」(いわゆるドライヤー報告)も、「労働組合権に関する申立の審査において国際労働機関によつてとられている一般原則によれば、政治的起源をもつ事態が適当な手続による国際労働機関の調査が要請されうる社会的側面(問題)を有している場合であつても、国際労働機関が国際的安全保障に直接関係ある政治問題を討議することは、その伝統に反し、かつ、国際労働機関自体の領域における有用性をもそこなうため不適当である。」(二一三〇項)という一般的見解を表明しているのである。)。

弁護人小林直人の上告趣意第一一点中、第一ないし第三について。

所論は、原判決が国公法一一〇条一項一七号について、何んら限定解釈をすることなく、社会的に相当行為たる被告人らの本件行為にこれを適用したのは、憲法三一条、二八条、一八条、二一条に違反するというのである。

しかし、国公法の右規定について、これを限定的に解釈しなくても、右憲法の各規定に違反するものでないことは、すでに弁護人佐藤義弥ほか三名の上告趣意第一点、第三点、第五点について説示したところおよび同第六点について説明した趣旨に照らし明らかであるから、所論は理由がない。

同第四について。

所論は、本件争議行為が、いわゆる政治的抗議ストであるから社会的相当性を有し、構成要件該当性を欠くとの単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

同第五について。

所論は、本件抗議ストは、憲法二一条の保障する「表現の自由」権の行使として、社会的相当性を具有しているものであるから、国公法一一〇条一項一七号の罰則規定は、被告人らの本件行為に適用される限度において、憲法三一条、二一条に違反し、無効であるというのである。

しかしながら、国公法の右規定が憲法三一条、二一条に違反しないことは、所論の第一ないし第三について示したところにより明らかであるから、その趣旨に徴し、所論は理由がない。

被告人ら各本人の上告趣意について。

所論は、いずれも事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

よつて、刑訴法四一四条、三九六条に則り、本件各上告を棄却することとし、主文のとおり判決する。

この判決は、裁判官石田和外、同村上朝一、同藤林益三、同岡原昌男、同下田武三、同岸盛一、同天野武一の各補足意見、裁判官岩田誠、同田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の各意見、裁判官色川幸太郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官石田和外、同村上朝一、同藤林益三、同岡原昌男、同下田武三、同岸盛一、同天野武一の補足意見(裁判官岸盛一、同天野武一については、本補足意見のほか、後記のような追加補足意見がある。)は、次のとおりである。

われわれは多数意見に同調するものであるが、裁判官田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の意見(以下、五裁判官の意見という。)は、多数意見の真意を理解せず、いたずらに誇大な表現を用いて、これを論難するものであつて、読む者をしてわれわれの意見について甚だしい誤解を抱かせるものがあると思われるので、あえて若干の意見を補足したい。

一  五裁判官の意見は、多数意見が、公務員を国民全体の奉仕者であるとする憲法一五条二項をあたかも唯一の根拠として公務員(非現業の国家公務員をいう。以下同じ。)の争議行為禁止の合憲性を肯定するものであるかのごとく、また公務員の勤務条件の決定過程の特殊性だけを理由としてその争議行為の禁止を根拠づけようとするものであるかのごとく、さらには代償措置の制度さえ設けておけばその争議行為を禁止しても憲法に違反するものではないとの安易な見解に立つているものであるかのごとく誤解し、多数意見を論難している。しかし、多数意見は、公務員も原則として憲法二八条の労働基本権の保障を受ける勤労者に含まれるものであることを肯定しながらも、私企業の労働者とは異なる公務員の職務の公共性とその地位の特殊性を考慮にいれ、その労働基本権と公務員をも含めた国民全体の共同利益との均衡調和を図るべきであるという基本的観点に立ち、その説示するような諸般の理由を総合して国家公務員法(以下、国公法という。)の規定する公務員の労働関係についての規制をもつて、いまだ違憲と見ることはできないとしているものなのである。さらに、五裁判官の意見は、多数意見をもつて、憲法一五条二項を公務員の労働基本権に対する「否定原理」としているものであるとまで極論したうえ、「使用者である国民全体、ないしは国民全体を代表しまたはそのために行動する政府諸機関に対する絶対的服従義務を公務員に課したものという解釈をする」とか、「このような解釈は、国民全体と公務員との関係をあたかも封建制のもとにおける君主と家臣とのそれのような全人格的な服従と保護の関係と同視するに近い考え方である」とか、さらには憲法二八条の労働基本権を「一種の忠誠義務違反としてそれ自体を不当視する観念」であつて、「すべての国民に基本的人権を認めようとする憲法の基本原理と相容れない」ものであるとか、極端に激しい表現を用いて非難しているのであるが、多数意見のどこにそのような時代錯誤的な考えが潜んでいるというのであろうか。いうまでもなく、多数意見は、五裁判官の意見が指摘するような国家の事務が軍事、治安、財政などにかぎられていた時代における前近代的観点から「抽象的、観念的基準によつて一律に割り切つて」いるものでもなく、また抽象的な公共福祉論、公僕論を拠りどころとしているものでもないことは、多数意見を冷静かつ率直に読むならば容易に理解できることであろう。

二  五裁判官の意見は、公務員の職務内容の公共性がその争議行為制限の実質的理由とされていることはなにびとにも争いのないところであること、また公務員の勤務条件の決定過程において争議行為を無制限に許した場合に民主的政治過程をゆがめる面があることも否定できないことを承認しながら、そのいずれの理由からも一切の争議行為を禁止することの正当性を認めることはできないとして、公務員の「団体交渉以外の団体行動によつて、立法による勤労条件の基準決定などに対して影響力を行使すること」を是認すべきであるといい、また代償措置はあくまで代償措置にすぎないものであるから、「政府または国会に右(人事院の)勧告に応ずる措置をとらせるためには、法的強制以外の政治的または社会的活動を必要とし、このような活動は、究極的には世論の支持、協力を要するものであり、世論喚起のための唯一の効果的手段としての公務員による団体行動の必要を全く否定することはできず」といつて、およそ争議行為を禁止されている公務員の利益を保障するために設けられた国家的制度としての代償措置の存在をことさらに軽視し、公務員による立法機関または世論に対する直接的な政治的効果を目的とする団体行動の必要性を強調しているのである。ところで、五裁判官の意見がここで指摘している「団体行動」とは、何を意味するかは必ずしも明らかではないが、その前後の論調からすると、単なる表現活動としての団体行動を指しているものとは認められず、明らかに憲法二八条にいわゆる団体行動を考えているものとしか思われない。しかもその団体行動は、「刑罰の対象から除外されてしかるべきものである」と断定していることからすると、罰則規定のある公務員の争議行為を念頭においているものと解さざるをえない。はたしてそうであるとすれば、五裁判官の意見は、立法府または社会一般に対する示威的行動としての公務員の争議行為の必要性を強調するものといわざるをえないのである。もとより、五裁判官の意見は、純然たる政治的目的の実現のための争議行為の必要性を説くものではない。しかしながら、およそ勤労者の団体が行なう争議行為の目的が使用者において事実的にも法律的にも解決しえない事項に関するものであるときは、その争議行為は、憲法二八条による保障を受ける余地のないものであるから、五裁判官の意見がいうところの公務員の団体行動としての争議行為なるものは、その実質において、いわゆる「政治スト」と汎称されるものとなんら異なるところはないのである。ことに、五裁判官の意見が法的強制以外の「政治的活動」の必要性を説くことは、まさに団体行動としての表現活動のほかに、「政治スト」を憲法上正当な争議行為として公務員に認めよということにほかならないのであつて、そのことは五裁判官の意見が本件について政治目的に出た争議行為であるとの理由から憲法二八条の保障の範囲に含まれないとしていることと明らかに矛盾するものであるといわねばならない。なお、付言するに、五裁判官の意見が右のように争議行為としての法的強制以外の「政治的活動」を強調していることについては、いわゆるドライヤー報告書が「日本の労働者の中央組織によつて行なわれてきた政治活動の性格は、真に労使関係を混乱させている一つの主要な要素である。」(二一二七項)と戒めていることをこの際指摘せざるをえないのである。

三  五裁判官の意見は、本件の処理にあたり、多数意見が何ゆえことさらいわゆる全司法仙台事件大法廷判決の多数意見(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号六八五頁、以下、単に全司法仙台事件判決という。)の解釈と異なる憲法判断を展開しなければならないのか、その必要性と納得のゆく理由を発見することができないと論難している。しかし弁護人らの上告趣意には、多岐にわたる違憲の主張が含まれており、また、まさに本判決の多数意見と五裁判官の意見との分岐点をなす中心問題について互に相反する高等裁判所の判決が指摘されて判例違反の主張がなされたのであるから、当裁判所としては、これらに対し判断をするにあたり、当然右全司法仙台事件判決の当否について検討せざるをえないばかりでなく、五裁判官の意見も、本件上告を棄却するについては、結論的には同意見であるから、上告趣意の総てについて逐一判断を示すべきものである。五裁判官の意見のような、この際全司法仙台事件判決に触れるべきではないとする考えは、本件の処理上、基本的問題の判断を避けて一時を糊塗すべきであるというにひとしく、とうていわれわれの承服しがたいところである。いま、多数意見がこれに論及せざるをえなかつたその他の理由の二、三をもあわせて指摘し、さらに同判決の判例としての評価について言及することとする。

(一)  まず、第一に、右全司法仙台事件判決は、憲法解釈にあたり看過できない誤りを犯したということである。すなわち、同判決とその基本的立場を共通にする、いわゆる都教組事件大法廷判決の多数意見(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁、以下、単に都教組事件判決という。)は、公務員の職務は一般的に公共性が強いものであることを認めながら、なお一部の職種や職務には私企業のそれに類似したものが存在するから公務員の争議行為を一律に禁止することは許されないと説くが、その論ずるところは、公務員の争議行為が行なわれる場合、一般に単なる機械的労務に従事する職務の者ばかりでなく、その職務内容が公共性の強い職員の大多数の者の参加によつて行なわれる集団的組織的団体行動であるという現実を無視した議論であり、しかも、職種、職務内容の別なく公務員に対して一律に保障された、生存権擁護の趣旨をもつ代償措置の現存することについての考慮を払うことなく、また、その判断の結果がはたして実際的に妥当するものであるかについて洞察することもなく、ただただ抽象的に理論を推しすすめるものである。すなわち、同判決は、抽象的、観念的思惟に基づいて、公務員による争議行為を制限禁止した関係公務員法の当該規定は違憲の疑いがあると安易に断定しているのであつて、全司法仙台事件判決もその論法において軌を一にしているのである。そのような憲法判断の手法は、労働基本権に絶対的な優位を認めようとするに傾きやすく、現実の社会的、経済的基盤の上に立つて国家と国民および国民相互の相反する憲法上の諸利益を調整すべきものであるという憲法解釈の要諦を忘れたものといわなければならない。なお、五裁判官の意見は「一律全面的」な争議行為の禁止は不当であるとして多数意見を論難するのであるが、職種と職務内容の公共性の程度が弱く、その争議行為が国民全体の共同利益にさほどの障害を与えないものについては、労働政策の問題として立法上慎重に考慮されるべきものであることについては、多数意見が指摘しているところである。ちなみに、西ドイツにおいては、公勤務従事者のうち、官吏についてはストライキを禁止されているが、その代り終身任用制度および一種の昇進制度が勤務条件法定主義のもとに行なわれているのに対し、雇員、単純労務職員については、特定の職務内容を限定してストライキを認めており、また、カナダ連邦、アメリカのペンシルバニヤ州やハワイ州では重要でない職務に従事する公務員についてストライキを認めているが、職務の重要性の判定は第三者機関が行なうたてまえとなつているのであつて、全司法仙台事件判決が示す「国民生活に重大な支障」を及ぼすことの有無というような漠然とした基準によつて公務員の争議行為の正当性を画する立法例は他国には見あたらないのである。なお、カナダ連邦の場合は、仲裁手続とストライキとの選択のもとに、かりにストライキを選択したときでも厳格な調停手続を経ることが条件となつているのであり、この手続を経ないストライキは禁止されているのである。そして、アメリカでストライキの認められている前示二州でも、ほぼこれに似た制度をとつているのであるが、その国情による相違があるとはいえ、重要でない職務の公務員のストライキを認めるについて、無制限にこれを認めることなく、厳格な制約のもとに置かれていることに特にに留意すべきである。

第二に、全司法仙台事件判決の示した限定解釈には重大な疑義があるということである。すなわち、同判決と基本的に共通の見解に立つている前記教組事件判決がいうところは、公務員の職務の公共性には強弱があるから、その労働基本権についても、その職務の公共性に対応する制約を当然内包しているという理論的立場を強調しながら、限定解釈をするにあたつては、一転して職務の公共性をなんら問題とすることなく、「ひとしく争議行為といつても、種々の態様のものがある」として、争議行為の態様の問題へと転移し、争議行為における違法性の強弱という曖昧な基準を設定したのである(五裁判官の意見は、多数意見が公務員の争議行為につきその「主体」のいかんを問わず全面的禁止を是認することを非難しているのであるから、当然「主体」による区別をいかに考えるべきかについての明確な基準を示して然るべきものなのである。しかるに、その明示がなされていないことは、現在の公務員制度のもとにおける職員組合の組織と争議行為の現況にかんがみ、そのような区別をたてることは抽象論としてはともかく、実際上はほとんど不可能であることを物語るものであろうか。)。ことに、同判決は、争議行為に関する罰則については、争議行為そのものの違法性が強いことと、あおり等の行為の違法性が強いことを要するばかりでなく、争議行為に「通常随伴して行なわれる行為」は処罰の対象とはならないと解すべきものであるとしている。ところで、いわゆる全逓中郵事件判決の多数意見(昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九〇一頁、以下、単に全逓中郵事件判決という。)では、争議行為の正当性を画する基準として、「政治的目的のために行なわれたような場合」、「暴力を伴う場合」、「社会の通念に照らして不当に長期に及ぶときのように国民生活に重大な障害をもたらす場合」をあげ、これらの場合でなければ、その争議行為は、憲法上保障された正当な争議行為にあたると説示されているが、全司法仙台事件判決では、争議行為の違法性が強い場合の基準として、そのまま右と同様のものが転用されているのである。すなわち、あおり行為等を処罰するための要件として、「争議行為そのものが、職員団体の本来の目的を逸脱してなされるとか、暴力その他これに類する不当な圧力を伴うとか、社会通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障を及ぼすとか」ということをあげている。争議行為が正当であるか否かは、違法性の有無に関する問題であり、違法性が強いか弱いかは違法性のあること、すなわち正当性のないことを前提としたものである。そして、ここにいう正当性の有無は、単に「刑法の次元」における判断ではなく、まさに憲法二八条の保障を受けるかどうかの憲法の次元における問題なのであるから、その保障を受けうるものであるかぎり、民事上、刑事上一切の制裁の対象となることはないのである。しかるに、全司法仙台事件判決は、全逓中郵事件判決が憲法上の保障を受けるかどうかの観点から違憲判断を回避するために示した正当性を画する基準と同一のものを、違法性の強弱判定の基準としているのであつて、そこに法的思惟の混迷があると思われるのであるが、それはともかくとして、このような基準の設定は、刑罰法規の構成要件としてもすこぶる不明確であり、そのゆえに、むしろ違憲の疑いを生むのであり、さらに右のような基準の確立が判例の集積になじまないものであることについては、岸裁判官、天野裁判官の追加補足意見の指摘するところである。この点について、五裁判官の意見は、公務員の争議行為をあおる等の行為が全司法仙台事件判決の判示する基準に照らして処罰の対象となるかどうかは事案ごとに具体的事実関係により判断されなければならないとして、これらの行為が国公法上罰則の対象となりうることを肯定しながら、公務員法違反の場合と公共企業体職員または私企業労働者の争議行為の場合とを対比し、一つは構成要件充足の問題であり、他は違法性阻却の問題であるといい、さらに転じて「刑法の次元における違法性阻却の理論によつて処理することは相当でなく」と至極当然のことにわざわざ言及し、あたかも多数意見がその誤りを犯しているかのごとき論難を加えているが、そのいわんとする真意が那辺にあるか理解に苦しむところである。

第三に、全司法仙台事件判決に見られる憲法解釈の疑点あることながら、それが惹起している労働・行政または裁判実務上の混乱も、また無視できないということである。すなわち、例えば、「都教組事件判決は、「違法な争議行為を想定して、あおり行為等をした場合には、かりに予定の違法な争議行為が実行されなかつたからといつて、あおり行為等の刑責は免れない。」旨判示する。しかし国公法一一〇条一項一七号の罰則は、あおり行為等に対して結果責任を問うものではないのであるから、行為者が、かりに違法性の弱い争議行為を想定して、あおり行為等をしたが、予期に反し、争議行為が「社会通念に反して不当に長期に及び国民生活に重大な支障」を与えた場合には、全司法仙台事件判決の見解に従うかぎり、なんらこれに対し刑事責任を問うことができないこととなるであろう。また、争議行為の実態に即して考えて見ても、争議行為は、通常、争議指導者の指令のままに動くものであるから、あおり等の行為自体の違法性が強い場合などはおよそありえないであろう。このことは、同判決の右のような解釈のもとでは、国公法の右規定が現実的には、ほとんど有効に機能しないことを示すものであつて、結局公務員の争議行為が野放しのままに放置される結果ともなりかねないのである。さらにまた、同判決が判示する前記の基準も、それ自体が客観性を欠き、これを捕捉するに極めて困難であり、五裁判官の意見のいうように、右の判決が一般国民の間に定着しているものとはとうてい考えられない。右の基準が曖昧で判断者の主観による恣意がはいりこむ虞れがあるという批判は、本件の弁論において弁護人からも強く指摘されたばかりでなく、すでに、いわゆる全逓中郵事件判決を支持する論者、これに反対の立場にある論者の双方から強い批判を受けているところである。全司法仙台事件判決も公務員の争議行為に対するあおり等の行為が罰則の適用を受ける場合のあることを肯定する以上は、その明確な基準を示すべきであつたのである。

さらに第四に、全司法仙台事件判決ならびにこれと同一の基盤をもつ都教組事件判決が全逓中郵事件判決と相まつて公務員の争議行為に関する罰則の適用について一般に誤つた評価を植えつけるにいたつたということである。すなわち、都教組事件判決は、全逓中郵事件判決が勤労者の労働基本権に対する、いわゆる内在的制約を考慮する際「一般的にいつて、刑事制裁をもつてこれに臨むべき筋合ではない。」(同判決の、いわゆる四条件中、(3)最高裁刑集二〇巻八号九〇七頁参照。)と判示したことをそのまま踏襲しているのであるが、さらに都教組事件判決の趣旨を受けついだ全司法仙台事件判決は、国公法一一〇条一項一七号についてこれを限定的に解釈しないかぎり憲法一八条、二八条に違反する疑いがあるといつて、一般に対し「公務員労働者の」「争議行為を刑事罰から解放」したものであるかのごとき誤つた理解を植えつけることとなつたのである。これは、ひつきよう、同判決の不明確な限定解釈と誤つた法解釈の態度とにその原因をもつものといわねばならないのである。(現に五裁判官の意見も公務員の争議行為に対するあおり等の行為が罰則の適用を受ける場合のあることを肯定していながら、しかも、なおかつ、あたかも多数意見のみが、公務員の争議行為に関し仮借のない刑事制裁を是認しているもののような論難をしているのである。)なお、付言するに、ILO第一〇五号条約(わが国は批准していない。)に関する第五二回ILO総会に提出された条約勧告適用専門家委員会の報告書は、「一定の事情の下においては違法な同盟罷業に参加したことに対して刑罰を科することができるということ、」「この刑罰には通常の刑務所労働が含まれることがあるということ」その他について合意が成立した旨の、同条約を審議した総会委員会の報告書を引用して「同盟罷業に関する各種の国内立法を評価するに当たり、本委員会は、総会の意図に関する前述したところを十分に考慮することが適当であると考える。」と述べているのである(九四項。なお九五項参照。)。

つぎに、全司法仙台事件判決には、真の意味の多数意見なるものがはたして存在するといえるであろうか。同判決において多数と見られる八名の裁判官の意見が一致しているのは、ただ国公法の規定を「限定的に解釈するかぎり」違憲でないと判示する点にかぎられているのである。そして、そのいわゆる限定解釈の内容について見るに、右八名の裁判官のうち、六名の裁判官は、違法性強弱論およびあおり行為等の通常随伴論の立場をとつているが、他の二名の裁判官は、違法性強弱論には否定的な意見を示しており、しかも、その二名の裁判官の間でも、「通常随伴性」についての考え方が一致していないのである。このように、限定解釈をすべきであるという点では同意見であつても、それだけでは全く内容のないものであり、そのいうところの限定解釈についての内容が区々にわかれていて、過半数の意見の裁判官による一致した意見は存在しないのである。前記のように、行政上および裁判上の混乱を招いたのも、ひつきよう、同判決ならびにその基盤を共通にする全逓中郵事件判決および都教組事件判決のもつ内容の流動性、曖昧性に基因するところが大きく、判例としての指導性にも欠けるところがあつたといわねばならないのである。そして、現在においては、本判決の多数意見は、前記判示のとおり、憲法および国公法の解釈につき一致した見解を示しているものであるのに対し、多数意見に同調する裁判官以外の裁判官の意見は、単に形式上少数であるばかりでなく、内容的にも国公法の解釈について意見が分立しており、ことに五裁判官の意見が本件につき上告棄却の意見であるならば、全司法仙台事件判決にいう、いわゆる通常随伴論を今日維持することは背理というほかなく、また通常随伴性論をとるとすれば、結論は、むしろ反対となるべき筋合いであろう。この一点をみても、右五裁判官ら自身、意識すると、しないとにかかわらず、前記の判例の見解を変更しているものにほかならない。したがつて、全司法仙台事件判決は、今日、もはやいかなる意味においても「判例」として機能しえないものであり、これが変更されるべきことは、自然の成行きといわなければならないのである。五裁判官の意見は、「僅少差の多数によつてさきの憲法解釈を変更することは、最高裁判所の憲法判断の安定に疑念を抱かせ、ひいてはその権威と指導性を低からしめる虞れがある云々」と述べているが、多数意見に対するいわれのない批判にすぎず、強く反論せざるをえない次第である。

裁判官岸盛一、同天野武一の追加補足意見は、つぎのとおりである。

(一)  まず、多数意見は、憲法二八条の勤労者のうちには、公務員(非現業の国家公務員をいう。以下同じ。)も含まれるとの見解にたちながらも、公務員の地位の特殊性とその職務の公共性とを考慮にいれるとき、公務員の勤労関係を規律する現行法制のもとでは、公務員の勤務条件が法定されており、その身分が保障されているほか、適切な代償措置が講じられている以上は、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの、以下国公法という。)九八条五項の規定は、いまだ、憲法二八条に違反するものと断ずることはできないとするものである。

ところで、一般的に勤労者の争議行為を禁止するについて、その代償措置が設けられることが極めて重要な意義をもつものであることは、いわゆるドライヤー報告やILO結社の自由委員会でもたびたび強調されているところであり、その事例を枚挙するにいとまなしといつても過言ではないのであるが、公務員に関してもその争議行為を禁止するについては、適切な代償措置が必要であることが指摘されているのである(結社の自由委員会第七六次報告第二九四号事件二八四項、第七八次報告第三六四号事件七九項第)。ところが、わが国で、公務員の争議行為の禁止について論議されるとき、代償措置の存在がとかく軽視されがちであると思われるのであるが、この代償措置こそは、争議行為を禁止されている公務員の利益を国家的に保障しようとする現実的な制度であり、公務員の争議行為の禁止が違憲とされないための強力な支柱なのであるから、それが十分にその保障機能を発揮しうるものでなければならず、また、そのような運用がはかられなければならないのである。したがつて、当局側においては、この制度が存在するからといつて、安易に公務員の争議行為の禁止という制約に安住すべきでないことは、いうまでもなく、もし仮りにその代償措置が迅速公平にその本来の機能をはたさず実際上画餅にひとしいとみられる事態が生じた場合には、公務員がこの制度の正常な運用を要求して相当と認められる範囲を逸脱しない手段態様で争議行為にでたとしても、それは、憲法上保障された争議行為であるというべきであるから、そのような争議行為をしたことだけの理由からは、いかなる制裁、不利益をうける筋合いのものではなく、また、そのような争議行為をあおる等の行為をしたからといつて、その行為者に国公法一一〇条一項一七号を適用してこれを処罰することは、憲法二八条に違反するものといわなければならない。

もつとも、この代償措置についても、すべての国家的制度と同様、その機能が十分に発揮されるか否かは、その運用に関与するすべての当事者の真摯な努力にかかつているのであるから、当局側が誠実に法律上および事実上可能なかぎりのことをつくしたと認められるときは、要求されたところのものをそのままうけ容れなかつたとしても、この制度が本来の機能をはたしていないと速断すべきでないことはいうまでもない。

以上のことは、多数意見においてとくに言及されていないが、その立場からは当然の理論的帰結であると考える。

(二)  つぎに、多数意見は、国公法一一〇条一項一七号について、福岡高等裁判所判決(昭和四一年(う)第七二八号同四三年四月一八日判決)が示した限定解釈は犯罪構成要件の明確性を害するもので憲法三一条違反の疑いがあるというが、われわれは、右の限定解釈は明らかに憲法三一条に違反するばかりでなく、本来許さるべき限定解釈の限度を超えるものであるとすら考えるものである。すなわち、同判決は、国公法の右規定を限定的に解釈して、争議行為が政治目的のために行なわれるとか、暴力を伴うとか、または、国民生活に重大な障害をもたらす具体的危険が明白であるなど違法性の強い争議行為を違法性の強い行為によつてあおるなどした場合に限り刑罰の対象となるというのであつて、いわゆる全司法仙台事件についての当裁判所大法廷判決の多数意見がさきに示した見解とほぼ同趣旨の見解を示しているのである。

ところで、憲法判断にさいして用いられる、いわゆる限定解釈は、憲法上の権利に対する法の規制が広汎にすぎて違憲の疑いがある場合に、もし、それが立法目的に反することなくして可能ならば、法の規定に限定を加えて解釈することによつて、当該法規の合憲性を認めるための手法として用いられるものである。そして、その解釈により法文の一部に変更が加えられることとなつても、法の合理的解釈の範囲にとどまる限りは許されるのであるが、法文をすつかり書き改めてしまうような結果となることは、立法権を侵害するものであつて許さるべきではないのである。さらにまた、その解釈の結果、犯罪構成要件が曖昧なものとなるときは、いかなる行為が犯罪とされ、それにいかなる刑罰が科せられるものであるかを予め国民に告知することによつて、国民の行為の準則を明らかにするとともに、国家権力の専断的な刑罰権の行使から国民の人権を擁護することを趣意とする、かのマグナカルタに由来する罪刑法定主義にもとるものであり、ただに憲法三一条に違反するばかりでなく、国家権力を法の支配下におくとともに国民の遵法心に期待して法の支配する社会を実現しようとする民主国家の理念にも反することとなるのである。このことは、大陸法的な犯罪構成要件の理論をもたない英米においても、つとに普通法上の厳格解釈の原理によつて、裁判所は、個々の事件について、法文の不明確を理由に法令の適用を拒否する手段を用いて、実質上法令の無効を宣言するのとひとしい実をあげてきたといわれているのであるが、とくに米国では、一世紀も前から法文の不明確を理由としてこれを無効とする理論が芽ばえ、一九〇〇年代にはいつてからは、国民の行為の準則に関する法令は、予め国民に公正に告知されることが必要で、そのためには、法文は明確に規定されなければならないとして、憲法修正五条、六条、一四条等の適正条項違反を理由に不明確な法文の無効を宣言する、いわゆる明確性の理論が判例法として確立され今日に及んでいるのである。

この法文の明確性は、憲法上の権利の行使に対する規制や刑罰法規のような国民の基本的権利・自由に関する法規については、とくに強く要請されなければならないことは当然である。

ところで、前記福岡高等裁判所判決は、あおり行為の対象となる争議行為の違法性の強弱を判定する基準の一つとして、「国民生活に対する重大障害」ということをあげている。同様に全司法仙台事件判決の多数意見は、「社会の通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障」といつている。しかし、国民生活に重大な障害とか支障とかいう基準はすこぶる漠然とした抽象的なものであつて、はたしてどの程度の障害、支障が重大とされるのか、これを判定する者の主観的な、時としては恣意的な判断に委ねられるものであつて、そのような弾力性に富む伸縮自在な基準は、刑罰法規の構成要件の輪郭内容を極めて曖昧ならしめるものといわざるをえない。また、全司法仙台事件判決の多数意見のように「社会の通念に反し不当に長期に及ぶなど」という例示が示されているとしても、どの程度の時間的継続が不当とされるのか、これまた甚だ不明確な要件といわざるをえないばかりでなく、そのうえ「社会の通念に照らし」という一般条項を構成要件のなかにとりこんでいることは、却てその不明確性を増すばかりである。したがつて、かような基準を示された国民は、自己の行為が限界線を越えるものでないとして許されるかどうかを予測することができず、法律専門家である弁護士、検察官、裁判官ですら客観的な法定基準を発見することに当惑し(いわゆる中郵事件の差戻し後の東京高裁昭和四一年(う)第二六〇五号同四二年九月六日判決・刑集二〇巻五二六頁参照)、罰則適用の限界を画することができないばかりでなく、民事上、行政上の制裁との限界もまた不明確であつて、法の安定性・確実性が著しくそこなわれることとなる。現に全国の事実審裁判所の判決においても、「国民生活に重大な障害」に関する判断か区々にわかれて統一性を欠いているのが今日の実情なのである。さらにまた、右のような限定解釈は、罰則の適用される場合を制限したかのようにみえるのであるが、それに示されているような抽象的基準では、前記判決が志向したところとはおよそ逆の方向にも作用することがないとも限らない。けだし、法文の不明確は法の恣意的解釈への道をひらく危険があるからである。

もつとも、右の基準の明確な確立は、今後の判例の集積にまてばよいとの反論もあろう。最近の、カナダの連邦公務員関係法、アメリカのペンシルバニヤ州の公務員労使関係法およびハワイ州公法は、重要職務に従事する公務員についてのみ争議行為を禁止しているのであるが、それらの立法に対する、職務の重要性・非重要性を区別することは困難であるとの批判に対して、裁判所の判例の集積による解決が最も妥当であるとの反論もみられる。しかし、右の諸立法においては、別に第三者機関による重要職務の指定判定の制度があつて、それによつて重要公務の範囲が一応は形式的に明確にされる建前なのであるから、その指定判定に争いがあるとき裁判所の判断をまつということのようである。すなわち、それは、重要職務に従事する公務員の範囲を主体の面から限定するものであつて、行為の態様による限定ではないのである。「国民生活に重大な障害」の有無というような行為の態様の基準の明確な確立は、むしろ、判例の集積による方法にはなじまないというべきであろう。

およそ国民の行為の準則は、裁判時においてではなく、行為の時点においてすでに明確にされていなければならない。また、終局判決をまたなければ明確にならないような基準は、基準なきにひとしく、国民を長く不安定な状態におくこととなる。国民は各自それぞれの判断にしたがつて行動するほかなく、かくては法秩序の混乱はとうてい免れないであろう。

憲法問題を含む法令の解釈にさいしては、いたずらに既成の法概念・法技術にとらわれて、とざされた視野のなかでの形式的な憲法理解におちいつてはならないことはいうまでもないことであり、また、絶えず進展する社会の流動性と複雑化とに対処しうるためには、犯罪構成要件がつねに客観的・記述的な概念にとどまることはできず、価値的要素を含んだ規範的なものへと深化されることも必要である。さらに、正義衡平、信義誠実、公序良俗、社会通念等々の、もともとは私法の領域で発達した一般条項の概念が、法解釈の補充的原理として具体的事件に妥する法の発見に寄与するところがあることも否定できない。しかしながら、あまりにも抽象的・概括的な構成要件の設定は、法の行為規範、裁判規範としての機能を失なわしめるものであり、いわんや、安易簡便な一般条項を犯罪構成要件のなかにとりこむことは極力これを避けなければならない。第二次大戦前のドイツ法学界において、一般条項がいともたやすく遊戯のように労働法を征服したとか、一般条項は個々の犯罪構成要件をのりこえてしまう傾向をもつとかと、強く指摘した警告的な主張がなされたことが思いあわされるのである。

法の規定が、その文面からは一義的にしか解釈することができず、しかも憲法上許される必要最小限度を超えた規制がなされていると判断せざるをえないならば、たとえ立法目的が合憲であるとしても、その法は違憲とされなければならない。しかるに、国公法一一〇条一項一七号についての前記のような限定解釈は、それを避けようとして詳密な理論を展開したのであるが、惜しむらくは、その理論の実際的適用について前述のような重大な疑義を包蔵するうえに、その限定解釈の結果もたらされた同条の構成要件の不明確性は、憲法三一条に違反するものであり、また、立法目的に反して法の規定をほとんど空洞化するにいたらしめたことは、法文をすつかり書き改めたも同然で、限定解釈の限度を逸脱するものといわざるをえないのである。

裁判官岩田誠の意見は、次のとおりである。

国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下、国公法という。)一一〇条一項一七号の規定の合憲性に関する私の意見は、当裁判所昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決(刑集二三巻五号六八五頁)における私の意見のとおりである。

したがつて、公務員の行なう争議行為の違法性の強弱、あおり行為等の違法性の強弱により国公法一一〇条一項一七号の適用の有無を決すべきでないことは、前記大法廷判決における私の意見のとおりであるけれども、同法条の規定は、これになんら限定解釈を加えなくても、憲法二八条に違反しないとする意見には賛同することができない。

これを本件について見るに、原判決が罪となるべき事実として確定したところによれば、被告人らは、それぞれ原判示のような農林省の職員をもつて組織する全農林労働組合(以下、全農林労組という。)の役員であるところ、昭和三三年一〇月八日内閣が警察官職務執行法の一部を改正する法律案(以下、警職法改正案という。)を衆議院に提出するやこれに反対する第四次統一行動の一環として、原判示第一、第二の所為に及んだというのであつて、被告人らの右所為は、全農林労組の団体行動としてなされたものとしても、右は警職法改正に対する反対闘争という政治目的に出たものであつて、全農林労組組合員の給与その他の勤務条件の改善、向上を図るためのものではないから、憲法二八条の保障する労働基本権の行使ということはできないものである。したがつて、被告人らの所為は、争議行為にいわゆる通常随伴するものであるか否かにかかわらず、それぞれ国公法一一〇条一項一七号にいう争議行為をあおることを企て、または、争議行為をあおつたものとして同条項違反の罪責を免れないものといわなければならない。

所論は、また、被告人らの所為を国公法一一〇条一項一七号により処罰した原判決および国公法の右規定は、憲法二一条に違反すると主張する。しかし、警職法改正法案に反対する意見を表明すること自体は、何人にも許され憲法二一条の保障するところであるが、その意見を表明するには、争議行為に訴えなくても、他にいくらでも適法な表明手段が存するのであつて、憲法二八条の保障の範囲を逸脱した本件のような争議行為によることを要するものではない。したがつて、前示のように憲法二八条の保障の範囲を逸脱した争議行為のあおり行為等を処罰する旨を定めた国公法一一〇条一項一七号の規定は、憲法二一条に違反するものではなく、被告人らの前記所為を処罰した原判決もまた憲法二一条に違反するものではない。

そうすると、被告人らの前示所為は国公法一一〇条一項一七号にあたるとして有罪の言渡をした原判決は結局正当であつて、被告人らの本件上告はいずれもこれを棄却すべきものである。

裁判官田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の意見は、次のとおりである。

本件上告を棄却すべきものとする点においては多数意見と同じであるが、その理由は次のとおりであるほか、岩田裁判官の意見と同じであり、多数意見の説く理由には賛成することができない。

第一  多数意見は、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの。以下、国公法という。)九八条五項および一一〇条一項一七号の各規定が憲法二八条に違反する旨の上告論旨を排斥するにあたり、右国公法の規定は、解釈上これに特別の限定を加えなくても憲法の右規定に反するものではないとし、この点につきさきに憲法違反の疑いを避けるために限定解釈を施すべきものとしたいわゆる全司法仙台事件の当裁判所判決(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号六八五頁)と相反する見解を示している。この多数意見の説くところは、基本的には右判決における少数意見を若干ふえんし、かつ、詳述したにとどまるものと考えられるが、これを要約すると、

(1)  公務員は全体の奉仕者であり、その職務内容は公共性をもつているから、公務員の争議行為は、その地位の特殊性と職務の公共性に反し、かつ、その結果多かれ少なかれ公務の停廃をもたらし、国民全体の利益に重大な影響を及ぼすか、またはその虞れがある。

(2)  公務員の勤労条件の決定は、私企業の場合と異なり、労使間の自由な取引に基づく合意によつてではなく、国会の制定する法律と予算によつて定められるという特殊性をもつているが、公務員が争議行為の圧力によつてこれに影響を及ぼすことは、右の決定についての正常かつ民主的な過程をゆがめる虞れがある。

(3)  公務員の争議行為の禁止については、これに対応する有効な代償措置制度が設けられている。

というに尽きる。しかし、右の理由は、いずれも公務員の争議行為を一律全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑事制裁を科することの合憲性を肯定するに十分な理由とすることはできない。すなわち、

一、憲法一五条二項の、公務員が国民全体の奉仕者である旨の規定は、主として、公務員が特定の政党、階級など国民の一部の利益に奉仕すべきものではないとする点に意義を有するものであつて、使用者である国民全体、ないしは国民全体を代表しまたはそのために行動する政府諸機関に対する絶対的服従義務を公務員に課したものという解釈をすることはできない。このような解釈は、国民全体と公務員との関係をあたかも封建制のもとにおける君主と家臣とのそれのような全人格的な服従と保護の関係と同視するに近い考え方であつて、公務員と国との関係を対等な権利主体間の法律的関係として把握しようという憲法の基本原理と相容れないものである。のみならず、公務員の地位の特殊性を強調する右の考え方は、勤労条件の決定に関する公務員の労働基本権、とくにその争議権に対する制約原理としてよりも、むしろ、その否定原理としてはたらく性質のものであつて、公務員についても基本的には憲法二八条の労働基本権が認められるとする多数意見自体の説くところと矛盾する契機をすらもつものである。すなわち、このような考え方のもとでは、たとえば、公務員の争議行為のごときは、一種の忠誠義務違反として、それ自体を不当視する観念を生じがちであり、この観念を公務員一般におし及ぼすことは、原則として、すべての国民に基本的人権を認めようとする憲法の基本原理と相容れず、とくに憲法二八条の趣旨とは正面から衡突する可能性を有するものである。それゆえ、公務員の争議権を制限する根拠を国民全体の奉仕者たる地位の特殊性に求めるべきではないというべきである。

次に、公務員の職務内容が原則として公共の利益に奉仕するものであり、公務員の職務解怠が公務の円滑な運営に支障をもたらし、公共の利益を害する可能性を有することは、多数意見のいうとおりであり、これが公務員の争議行為を制限する実質的理由とされていることは、なにびとも争わないところである。しかし、このことから直ちに、およそ公務員の争議行為一切を一律に禁止し、これをあおる等のすべての行為に刑事制裁を科することが正当化されるとの結論を導くことには、明らかに論理の飛躍がある。すなわち、公務の円滑な運営の阻害による公益侵害をもつて争議権制限の実質的理由とするかぎり、このような侵害の内容と程度は争議行為制限の態様、程度と相関関係にたつべきものであつて、たとえば、形式的には一時的な公務の停廃はあつても、実質的には公務の運営を阻害する虞れがあるといいえない争議行為までも一律に禁止し、これをあおる等の行為に対して刑事制裁を科することが正当とされるいわれはないといわなければならない。国の事務が国の存続自体を支える固有の統治活動、すなわち、軍事、治安、財政などにかぎられていた時代においては、これに従事する者も限定されていた反面、それらの者による公務の懈怠が直ちに国家社会の安全に響く虞れがあり、したがつて、そのような理由からこれらの者の争議行為を全面的に禁止することにも合理性があることを否定できなかつたとしても、近代における福祉国家の発展に伴い、国や地方公共団体の行なう事務が著しく拡大し、その大部分が一般福祉行政や公共的性質を有する経済活動となり、これに従事する者も飛躍的に増加して、全公務員の相当部分を占め、しかも、これらの公務員が全勤労者の中でも相当大きな割合を形成するに至つた今日においては、公務の内容、性質もきわめて多岐多様であるとともに、その運営の阻害が公共の利益に及ぼす影響もまた千差万別であつて、そのうちには、公益的性質を有する私企業の業務を停廃による影響とその内容、性質においてほとんど区別がなく、むしろ、後者の方がその程度いかんによつては、国民生活に対してより重大な支障をもたらす虞れのある場合すら存するのである。したがつて、これらをすべて公益侵害なる抽象的、観念的基準によつて一律に割り切り、公務員の争議行為を、その主体、内容、態様または程度などのいかんにかかわらず全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に刑事制裁を科するようなことは、とうてい、合理性をもつ立法として憲法上これを正当化することはできないといわなければならない。

二、公務員に対する給与は、国または地方公共団体の財源使用の一内容であるから、公務員の勤労条件のいかんは、国などの財政、ことに予算の編成と密接な関連を有し、したがつて、その決定につき、国会または地方公共団体の議会の監視または承認を経由する必要があることは、多数意見の説くとおりである。しかし、このことから、右の勤労条件の基準がすべて立法によつて決定されることを要し、その間に労使間の団体交渉に基づく協定による決定なるものをいれる余地がないとする結論は、当然には導かれないし、憲法上それが予定されていると解すべき根拠もない。憲法七三条四号は、内閣が法律の定める基準に従い官吏に関する事務を掌理すべき旨を規定しているが、それは、国家公務員に関する事務が内閣の所管に属することと、内閣がこの事務を処理する場合の基準の設定が立法事項であつて政令事項ではないことを明らかにしたにとどまり、公務員の給与など勤労条件に関する基準が逐一法律によつて決定されるべきことを憲法上の要件として定めたものではなく、法律で大綱的基準を定め、その実施面における具体化につき一定の制限のもとに内閣に広い裁量権を与え、かつ、公務員の代表者との団体交渉によつてこれを決定する制度を設けることも憲法上は不可能ではない。したがつて、公務員の勤労条件が、その性質上団体交渉による決定になじまず、団体交渉の裏づけとしての団体行動を正当とする余地がないとすることはできないのである。もつとも、公務員の勤労条件の抽象的基準をすべて法律によつて定めることは、憲法上可能であり、わが国においては現にこのような立法政策がとられ、国家公務員法や公務員給与関係諸法律などによつて、公務員の勤労条件の基準に関し詳細な規定が設けられ、しかも、公務員団体に対し団体交渉権が認められているとはいえ、団体協約締結権は否定され、団体交渉により勤労条件が決定される余地や範囲はきわめて狭く、したがつて、公務員の争議権は、団体交渉権の裏づけとしての意味に乏しく、この点において私企業労働者の場合に比し大きな相違が存することは、これを認めなければならない。しかしながら、公務員の争議権が、その実質的効果の点において大きな制約を受けざるをえないからといつて、団体行動による影響力の行使を全く認める余地がないとか、これを全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑罰を科しても差しつかえないとの結論が然当に導かれるわけではない。公務員がその勤労条件に関する正当な利益を主張し、かつ、これを守るために団結して意思表示をし、団体交渉以外の団体行動によつて、立法による勤労条件の基準決定などに対して影響力を行使することは、その方法が相当であり、かつ、一定の限界内にとどまるかぎり、刑罰の対象から除外されてしかるべきものである。勤労者にとつて団体行動は、このような影響力行使の唯一ともいうべき手段であり、公務員の場合といえどもことは同様である。多数意見は、このような目的のもとにされる公務員の争議行為が、立法や予算の決定などについての民主的政治過程を不当にゆがめる危険があることを指摘するが、この議論は、公務員の争議行為を無制限に許した場合の弊害については妥当するとしても、およそ一切の争議行為を禁止し、これをあおる等の行為に対して刑罰を科することを正当とする理由となるものではない。換言すれば、公務員が自己の要求を貫徹するために、国民生活に重大な影響を及ぼす虞れのあるような争議行為を遂行し、かつ、これを継続するような場合には、多数意見の危惧する弊害が生ずるかも知れないが、その程度に至らないものについては、そのような弊害が生ずる虞れはなく、要は、その方法および程度の問題にすぎないのである。更に、多数意見は、政府にいわゆる作業所閉鎖(ロツクアウト)による対抗手段がないことを挙げるが、このような対抗手段は、特殊の強力な争議行為に対するそれとしてのみ意味を有するにすぎず、ロツクアウトが利用できないことは、勤労者側におけるすべての争議行為を不当とする理由となるものではない。そればかりでなく、立法や予算とは直接関係のない問題、とくに団体交渉の認められる事柄について団体行動による影響力を行使する必要がある場合も想定されないわけではないのである。このようにみてくると、多数意見の前記(2)の理由も、公務員の争議行為を全面的に禁止し、これをあおる等のすべての行為に対して刑罰を科することを正当づける理由となるものではないというほかはない。

三、現行法上、公務員の勤労条件については、人事院が内閣から独立した機関として設けられ、勧告その他の活動により比較的公正な立場から公務員の正当な利益を守る、いわゆる代償措置に関する制度が設けられていることは、多数意見の指摘するとおりである。しかし、このような代償措置制度の存在は、国民生活全体の利益の保障という見地から、最少限度公務員の労働基本権を制限する場合において、文字どおりその代償として必要とされるものにすぎず、代償措置制度を設けさえすれば労働基本権を制限することができるというわけのものではない。しかも、実際上、人事院の存在およびその活動が、労働基本権の行使と同じ程度に、公務員の勤労条件に関する正当な利益を保護する機能を常に果すものとはいいがたく、とくに、人事院勧告は、政府または国会に対してなんら応諾義務を課するものではないから、政府または国会に右勧告に応ずる措置をとらせるためには、法的強制以外の政治的または社会的活動を必要とし、このような活動は、究極的には世論の支持、協力を要するものであり、世論喚起のための唯一の効果的手段としての公務員による団体行動の必要を全く否定することはできず、また、人事院の勧告の成立過程においても、勧告の内容に対する公務員の要求を表示するために同様の方法をとる場合のありうることも否定できないのである。要するに、代償措置はあくまでも代償措置にすぎず、しかも現代の代償措置制度の運用については、状況に応じた公務員の団体行動による監視、批判、要求、圧力などを必要とする場合もありうべく、単なる代償措置制度の存在を理由として公務員の争議行為を全面的に禁止し、これをあおる等の行為に対して刑罰を科することを正当化することは、とうてい、不可能であるといわざるをえない。

四、なお、多数意見は、その理由中において、前記大法廷の判決が公務員の争議行為禁止およびこれをあおる等の行為の処罰規定について施した限定解釈に対し、それが法律の明文を無視し、立法の趣旨にも反するものであり、また、限定の基準が不明確であつて刑罰法規における犯罪の構成要件の明確化による保障機能を失わせ、憲法三一条に違反する疑いがあると論難している。

ところで、右の大法廷判決における国公法の規定の限定解釈に関する見解のうち、争議行為およびこれをあおる等の行為中、処罰の対象となるものとそうでないものとの区別の基準について、いわゆる違法性の強弱という表現を用いた部分が、犯罪の構成要件としてその内容、範囲につき明確を欠くという批判を受けたことは否定することができない。しかし、右の見解は、憲法二八条が労働基本権を保障していることにかんがみ、勤労者である公務員の争議行為とこれをあおる等の行為のうち、刑罰の対象とならないものを認めるべきであるとの基本的観点にたち、その基準として、争議行為については、職員団体の本来の目的を達成するために、暴力なども伴わず、不当に長期にわたる等国民生活に重大な支障を及ぼす虞れのないものにかぎつているのであつて、いわゆる違法性の強弱という表現は、以上の趣旨で用いられたものと解されるのである。また、これをあおる等の行為についても組合員の共同意思に基づく争議行為に関しその発案、計画、遂行の過程において、単にその一環として行なわれるにすぎないいわゆる通常随伴行為にかぎり、いずれも処罰の対象から除外すべきものとするにあり、したがつて、争議行為をあおる等の行為が異常な態様で行なわれた場合および組合員以外の第三者または組合員と第三者との共謀によつて行なわれた場合は、通常随伴行為にあたらないものとしているのである。

それゆえ、公務員の争議行為をあおる等の行為が右の基準に照らして処罰の対象となるかどうかは、事案ごとに具体的な事実関係に照らして判断されなければならないこととなるが、このことは、公共企業体職員または私企業労働者の争議行為が、たまたまそれ自体争議行為の禁止を内容としていない他の刑罰法規の構成要件事実に該当する場合、たとえば、いわゆる全逓中郵事件(最高裁昭和三九年(あ)第二九六号同四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九〇一頁)のような場合に、憲法二八条ないしは労働組合法一条二項の規定との関係から、労働組合の本来の目的を達成するためにした正当な行為であるかどうかにつき、事案ごとに具体的な事実関係に照らして判断されなければならないのと同様である。ただ、後者の関係では違法性阻却の問題であり、前者の関係では構成要件充足の問題であるという相違が生ずるにすぎない。

およそ、ある法律における行為の制限、禁止規定がその文言上制限、禁止の内容において広範に過ぎ、それ自体憲法上保障された個人の基本的人権を不当に侵害する要素を含んでいる場合には、右基本的人権の保障は憲法の次元において処理すべきものであつて、刑法の次元における違法性阻却の理論によつて処理することは相当でなく、また、右基本的人権を侵害するような広範に過ぎる制限、禁止の法律といつても、常にその規定を全面的に憲法違反として無効としなければならないわけではなく、公務員の争議行為の禁止のように、右の基本的人権の侵害にあたる場合がむしろ例外で、原則としては、その大部分が合憲的な制限、禁止の範囲に属するようなものである場合には、当該規定自体を全面的に無効とすることなく、できるかぎり解釈によつて規定内容を合憲の範囲にとどめる方法(合憲的制限解釈)、またはこれが困難な場合には、具体的な場合における当該法規の適用を憲法に違反するものとして拒否する方法(適用違憲)によつてことを処理するのが妥当な処置というべきであり、この場合、立法による修正がされないかぎり、当該規定の適用が排除される範囲は判例の累積にまつこととなるわけであり、ことに後者の方法を採つた場合には、これに期待せざるをえない場合も少なくないと考えられるのである。

以上の点に思いをいたすときは、前記のいわゆる全司法仙台事件の判決が国公法一一〇条一項一七号の規定について前記のような趣旨で構成要件の限定解釈をしたからといつて、憲法三一条に違反する疑いがあるとしてこれを排斥するのは相当でなく、いわんや、この点を理由として、右国公法の規定が解釈上これになんらの限定を加えなくても憲法二八条に違反せず全面的に合憲であるとするようなことは、とうてい、許されるべきではない。

第二  以上、公務員の争議権に関する多数意見の見解の不当であるゆえんを述べたが、ひるがえつて考えるに、本件の処理にあたり、多数意見が、何ゆえ、ことさらにいわゆる全司法仙台事件大法廷判決の解釈と異なる憲法判断を展開しなければならないのか、その必要と納得のゆく理由を発見することができない。

本件は、全農林労働組合による警職法改正反対闘争という政治目的に出た争議行為をあおることを企て、また、これをあおつた行為が国公法の前記規定違反の罪にあたるとして起訴された事件であり、このような争議行為が憲法二八条による争議権の保障の範囲に含まれないことは、岩田裁判官の意見のとおりである。それゆえ、この点につき判断を加えれば、本件の処理としては十分であり、あえて勤労条件の改善、向上を図るための争議行為禁止の可能性の問題にまで立ち入つて判断を加え、しかも、従前の最高裁判所の判例ないしは見解に変更を加える必要はなく、また、変更を加えるべきではないのである。

憲法の解釈は、憲法によつて司法裁判所に与えられた重大な権限であり、その行使にはきわめて慎重であるべく、事案の処理上必要やむをえない場合に、しかも、必要の範囲にかぎつてその判断を示すという建前を堅持しなければならないことは、改めていうまでもないところである。ことに、最高裁判所が最終審としてさきに示した憲法解釈と異なる見解をとり、右の先例を変更して新しい解釈を示すにあたつては、その必要性および相当性について特段の吟味、検討と配慮が施されなければならない。けだし、憲法解釈の変更は、実質的には憲法自体の改正にも匹敵するものであるばかりでなく、最高裁判所の示す憲法解釈は、その性質上、その理由づけ自体がもつ説得力を通じて他の国家機関や国民一般の支持と承認を獲得することにより、はじめて権威ある判断としての拘束力と実効性をもちうるものであり、このような権威を保持し、憲法秩序の安定をはかるためには、憲法判例の変更は軽々にこれを行なうべきものではなく、その時機および方法について慎重を期し、その内容において真に説得力ある理由と根拠とを示す用意を必要とするからである。もとより、法の解釈は、解釈者によつて見解がわかれうる性質のものであり、憲法解釈においてはとくにしかりであつて、このような場合、終極的決定は多数者の見解によることとならざるをえない。しかし、いつたん公権的解釈として示されたものの変更については、最高裁判所のあり方としては、その前に変更の要否ないしは適否について特段の吟味、検討を施すべきものであり、ことに、僅少差の多数によつてこのような変更を行なうことは、運用上極力避けるべきである。最高裁判所において、かつて、大法廷の判例を変更するについては特別多数決による旨の規則改正案を一般規則制定諮問委員会に諮問したところ、裁判官の英知と良識による運用に委ねるのが適当である、との多数委員の意見により、改正の実現をみるに至らなかつたことがあることは、当裁判所に顕著な事実であるが、この経緯は、右に述べたことを裏づける一資料というべきものである。

ところで、いわゆる全司法仙台事件の当裁判所大法廷判決中の、憲法二八条が労働基本権を保障していることにかんがみ公務員の争議行為とこれをあおる等の行為のうち正当なものは刑事制裁の対象とならないものである、という基本的見解は、いわゆる全逓中郵事件の当裁判所判決およびいわゆる東京都教組事件の当裁判所判決(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁)の線にそい、十分な審議を尽くし熟慮を重ねたうえでされたものであることは、右判決を通読すれば明らかなところであり、その見解は、その後その大綱において下級裁判所も従うところとなり、一般国民の間にも漸次定着しつつあるものと認められるのである。ところが、本件において、多数意見は、さきに指摘したように、事案の処理自体の関係では右見解の当否に触れるべきでなく、かつ、その必要もないにもかかわらず、あえてこれを変更しているのである。しかも、多数意見の理由については、さきの大法廷判決における少数意見の理論に格別つけ加えるもののないことは前記のとおりであり、また、右判決の見解を変更する真にやむをえないゆえんに至つては、なんら合理的な説明が示されておらず、また、客観的にもこれを発見するに苦しまざるをえないのである。以上の経過に加えて、本件のように、僅少差の多数によつてさきの憲法解釈を変更することは、最高裁判所の憲法判断の安定に疑念を抱かせ、ひいてはその権威と指導性を低からしめる虞れがあるという批判を受けるに至ることも考慮しなければならないのである。

以上、ことは、憲法の解釈、判断の変更について最高裁判所のとるべき態度ないしあり方の根本問題に触れるものであるから、とくに指摘せざるをえない。

裁判官色川幸太郎の反対意見は、次のとおりである。

第一  争議行為の禁止と刑罰

一、多数意見は、要するに、非現業国家公務員(以下公務員という。)については一切の争議行為が禁止されるのであり、これをあおる等の行為をする者は、何人であつても、刑事制裁を科せられるものであるとし、その旨を規定した国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの、以下国公法という。)一一〇条一項一七号は、これに何らの限定解釈を施さなくとも合憲であるというのであるが、私はこれに決定的に反対である。その理由としては、当裁判所大法廷の都教組事件判決(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁)及び仙台全司法事件判決(昭和四一年(あ)第一一二九号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号六八五頁)(但しこれに付した私の少数意見と抵触する部分を除く。)にあらわれた基本的な見解を引用し、これをもつて私の意見とする。なお、多数意見に含まれる若干の論点について、私のいだいた疑問を開陳し、反対理由の補足としたい。

二、多数意見は、公務員の争議行為が何故に禁止されなければならないか、という理由については、縷縷、言葉をつくして説示しているのであるが(私もその所説については必ずしも全面的に反対するわけではない。)、要は、公務員には争議権を認めるべきではないということだけを力説しているにすぎない。しかるに多数意見は、一転ただちに、科罰の是認へと飛躍し、見るべき論拠をほとんど示すことなく、およそ、争議行為の禁止に違反した場合、これに懲役刑を含む刑罰をもつて臨むことを、争議権制限に伴う当然の帰結とするもののごとくであつて、私としては到底納得できないのである。

思うに、争議行為を制限しまたは禁止する立法例は現に数多く存在する。ひとり公務員の場合だけではない。しかし禁止違反に対し、ただちに、懲役を含む刑罰を加えるべきことが規定されているのは、他に例を見ないところである。公労法一七条は、公共企業体の職員や郵政その他国営企業の現業公務員及びそれらの組合の争議行為を禁止し、このような禁止された行為を共謀し、そそのかし若しくはあおる等の行為は、してはならないと定めており、その点で国公法九八条と趣旨を同じくしているのであるが、その違反者は、解雇処分を受けることがあるにすぎず、禁止の裏付けとなる罰則は全く存在しないのであるから刑罰に処せられることがない(電電公社その他各企業体にはそれぞれの事業法があり、そのなかには不当に業務を停廃したことに対する処罰規定もおかれているが、これは個別的な秩序違反行為を対象としたものであつて、争議行為に適用されるものではないと解する。)、公共企業体の職員や国営企業の現業公務員に対して争議行為を禁止するのは国民の福祉を擁護するためであるから、国公法が公務員に対し争議行為を禁止する趣旨との間に、格段の径庭があるわけではない。それであるから、公務員の争議権が制約されなければならない理由を単に積み重ねただけでは、科罰の合理性を論証したことにはなりえないであろう。

三、もつとも多数意見がその点に全くふれていないわけでもない。いま、多数意見のいうところから理由づけと見るべきものを求めると(1)公務員の争議行為は広く国民全体の共同利益に重大な障碍をもたらす虞れがあること、そして(2)あおり等の行為をした者はかかる違法な争議行為の原動力または支柱であること、の二点であろうか。しかし、いずれを取りあげても、科罰の合理性につき人をして首肯せしめるには、ほど遠いもののあることを感ぜざるをえない。

刑罰を必要とする第一の、というよりはむしろ唯一の、理由は、争議行為が国民全体の共同利益に重大な障碍をもたらす虞れがあるから、というところに帰着する。しかし、一口に公務員といつても、国策の策定や遂行に任ずる者もあれば、上司の指揮下で補助的な作業にあたつたり、あるいは単純な労務に従事するにすぎない者もありり、その業務内容や職種は千差万別である。のみならず、争議行為のために多かれ少なかれ公務の停廃を見るとしても、争議行為の規模や態様には幾多の段階やニユアンスの差異があるのであつて、国民全体の生活に重大な障碍をもたらすか、またはその虞れがあるような争議行為は、過去の実績に徴しても、極めて異例であるといつて差支えない。国民生活上何らエツセンシアル(これについては後にふれる)でない公務が、ごく小範囲の職場において、しかも長からざる期間、争議行為によつて停廃を見たとしても(公務員労働関係における大半の紛争状態はまさにこれである。)、国民は多少の不便不利益を蒙るだけである。もともと、労働組合の争議行為は使用者に打撃を加えて己れの主張を貫徹しようとするものであるが、企業は社会から孤立した存在ではないから、そこにおける業務の阻害は第三者にも影響を与えないわけにはいかない。その企業が運輸とか医療とかの公益事業であると、業務の停廃による直接の被害者はむしろ一般公衆である。かくのごとく、第三者も争議行為によつて迷惑を蒙ることを免れないが、それが故に争議行為を全く禁止し、または争議行為によつて第三者の受けた損害を当該労働組合などにすべて負担せしめては憲法二八条の趣旨は全うされないことになるであろう。その意味で第三者はある程度の受忍を余儀なくされるのであり、公務員の場合でも本質的には変るところがないというべきである。

多数意見の立論の基礎は、国民全体の共同生活に対する重大な障碍を与えるという点にあるのであるから、前述のごとき、国民に対し多少の不便をかけるにすぎない軽微な争議行為については、これに刑罰をもつて臨まないとするのが、論理上当然の筋合ではないかと思うのであるが、何故に多数意見は、事の軽重や、国民生活に対する影響の深浅などをすべて捨象度外視して、公務員による一切の争議行為に対し、刑罰を科することを無条件に是認しようとするのであろうか。限定解釈をしてはじめて憲法上科罰が許されると考えている私の到底同調できないところである。

四、つぎに多数意見は、「公務員の争議行為は、憲法に違反することはないのであるから、」「この禁止を侵す違法な争議行為をあおる等の行為をする者」は、原動力を与える者としての重い責任が問われて然るべきであり、「違法な争議行為の防遏」のためにその者に刑事制裁を科することには「十分の合理性がある」とする。しかしながら争議行為の禁止が違憲でないからといつて、禁止違反に対し刑罰をもつて臨むことまでも、憲法上、当然無条件に認められるということにはならない。憲法は争議権の保障を大原則として宣言しており、公務員もその大部分はかつてその保障下にあつたのである。その後にいたり、国民の福祉との権衡上、やむをえざる例外として制約されるにいたつたものであると解せられるから(多数意見もこの点は同じ見解をとるものであろう。)、禁止違反に対して科せらるべき不利益の限度なり形態なりは、憲法二八条の原点にもう一度立ち帰り、慎重の上にも慎重に策定されなければならないのである。争議行為禁止が違憲でないが故に禁止違反にはいかなる刑罰を科しても差支えない、という説をとるとすれば、これは論理的にも無理というものではあるまいか。多数意見の立論は、公務員の争議行為を禁止することこそ憲法の要請であり、至上命令だというような途方もない前提(多数意見は憲法一五条を論じて公務員の地位の特殊性を説くが、さすがにかかる論議にまでは発展していない。)でもとらないかぎり、破綻せざるをえまい。

五、さらに、多数意見は、あおり等の行為を罰することに十分の合理性があるという。しかし、いうところの合理性とは「争議行為の防遏を図るため」の合理性、すなわち、最少の労力をもつて最大の効果をえようとする経済原則としての合理性に近似したもののように見受けられる。いいかえれば、憲法二八条の原則に対する真にやむをえない例外である科罰が、いかなる合理的な根拠に基づいて容認されるか、という意味での合理性ではなく、それとは全く縁もゆかりもない刑事政策ないしは治安対策上の合理性をいうもののごとくである。

わが国にはかつて、争議行為の誘惑、煽動を取り締る治安警察法一七条という規定があり、これを活用した警察が、明治、大正にわたり、あらゆる争議行為の防遏に美事に功を奏したことがある。当時と異なり争議権の保障のある今日、よもや立法者がその故智先蹤にならつたわけではあるまいが、禁止に背いた違法な争議行為に対処するにあたり、参加者全員を検挙し断罪するのは煩に堪えないばかりでなく、単なる参加者よりも社会的責任の重いいわば巨悪を罰すれば、付和随行の者どもは手を加えるにいたらずして争議行為を断念するであろうという計算があつたのかも知れない。もしそうだとすれば、争議対策としてはなるほど合理的ではあろう。しかしこの考え方は、憲法の次元を離れた、憲法的視野の外にある、便宜的、政策的なもので、もとより採ることは許されない。

六、多数意見は、あおり等の行為に出た者は、争議行為の原動力をなす者であるから、「単なる争議行為参加者にくらべて社会的責任が重く」、したがつてその責任を問われても当然だという。これを裏返していえば、単なる争議行為参加者にも、刑事責任追及の根拠となる社会的責任がないわけではない、ただ原動力を与えた者に比べると軽いだけである、とする主張が底流をなしている。多数意見も、別の個所で、違法な「争議行為に参加したにすぎない職員は刑罰を科せられることなく」と述べてはいるが、それは現行法のあり方を説明したにとどまり、憲法上そうでなければいけないのだという趣旨はどこからも窺うことができない。いまもし現行法が改正されて、単なる争議行為参加者をもことごとく処罰するということになつたと仮定した場合、多数意見の立場からは、これをどう受けとめるであろうか。恐らくは、かくのごとき改正も国会みずからが自由にきめうるところであるとし、その規定を適用することに何の躊躇をも示さないことになるのではあるまいか。

七、上述のように、単なる争議行為参加者は処罰されることがないのであるが、これは区区たる立法政策に出たものと解すべきではない。もしそれをしも処罰するとなれば、ただちに違憲の問題を生ずるであろう。いわゆる争議行為参加者不処罰の原則は憲法二八条との関連において確立されているのである。あおり等の行為の意義も、右の基本的な立場に立脚してはじめて正しく理解することができると考える。

これに対し多数意見はもとより見解を異にするわけであるが、それにしても、単なる争議行為参加者を処罰するものでないことは、多数意見の容認するところである。しかし、あおり等に関する多数意見の解釈はあまりにも広く(多数意見のように、憲法二八条に立脚せず、それとの関係を無視ないし閑却するかぎり、恣意的な解釈で満足するのであれば格別、厳密な態度での合理的な限定解釈を施すことはできる筈がないのである。)もしそれによるとすれば、後に述べるように、単なる争議行為参加者も処罰の脅威を感ぜざるをえなくなるのであつて、多数意見の立論の根拠たる原動力論、すなわち違法な争議行為の原動力をなす者だけを処罰するのだという理論も実は看板だけにしかすぎないことになりおわるのである(多数意見は、わざわざカツコ書きにおいて、単なる機械的労務を提供したにすぎない者、またはこれに類する者はあおりその他の行為者には含まれないとことわつているのであるが、これは争議行為が組合員自身によつて形成され遂行されるものであるという現実を無視した空論なのである。およそ争議行為は、組合員すべてが自己の判断に基づきそれぞれが主体的な立場に立つて参加し行動するのが通例であつて、例えば、末端組合員が普通担当することになるであろうビラの配布、貼付、指令の伝達などにしても、選挙運動の際の日雇労務者などに見られる単なる機械的な労務の提供とはその質を異にする。)。

国公法一一〇条一項一七号によつて罪となる行為には、以上の他に、「そそのかし」と「共謀」とがあるが、これらの行為類型のどれひとつ取りあげても、もし多数意見にならつて文字通りに解釈するとすれば、自由意思に基づいて争議行為に参加し、共闘するところのあつた組合員は、たとえ平組合員であろうとも刑事責任を追及されかねないことになる。なぜならば、平組合員と雖も、いわゆる総けつ起大会に出席し、執行部のスト提案に熱烈な声援を送つて組合員の闘志を鼓舞したとすれば「あおり」にちがいないし、スト宣言文書やアジビラを積極的に職場その他に貼つたり、撒いたりしたときは「そそのかし」に該当しないとはいいきれない。そればかりではない。組合の争議行為意思の形成に進んで参加し、また、争議手段についての討議に加わる(これは組合による闘争の場合必ず通過する過程である。)ことが、果して「共謀」でないといいうるかどうかさえ疑問になりはしないか。

もしかかる設例が必ずしも想定できないわけでないとすれば(争議の実情に鑑みると決してありえないことではない。)指導的立場において原動力たる役割を演じた組合の中枢部だけでなく、ある程度積極的ではあれ、結局は単なる争議参加者にしかすぎなかつた者を、徹底的に検挙することすら易易たる業となるのである。もし仮にそういう事態が生じたとすれば、これは原動力理論を主張する論者にとつてさえ、恐らく不本意ではあるにちがいない。多数意見も「法は公務員の労働基本権を尊重しこれに対する制約、とくに刑罰の対象とすることを最小限度にとどめようとしている」と説いているのであるから。

もちろん、普通の紛争に見られる程度の事情においては、かかる不合理な結果を来たすような処理はなされないであろうが、法律による何の歯止めもなく、あげてそのことを捜査機関の良識ある裁量に俟つのみとあつては、多数意見の強調する原動力理論も宙に浮く結果となるであろう。

八、多数意見は、ILO九八号条約をひいて、それが公務員に適用されないことをあげ、また、ILO結社の自由委員会の報告中に、「大多数の国において」公務員がストライキを禁止されている旨の記述があるとして、当該個所を引用し、公務員の争議行為に対する制約は、国際的にも是認されるものだと主張する。

なるほど九八号条約の第六条には、多数意見の引用にかかるような定めのあることは事実であるが、一九七一年に発足したILOの公務員合同委員会(これは日本を含む一六の政府及びそれぞれの国の労働者側からなる二者構成の公的な専門委員会である。)の第一回会議(同年三月二二日ないし四月二日開催)におけるジエンクスILO事務局長の開会演説は、「現在多くの国において、公務員の労働関係に変化が生じており、勤務条件は労使の話合いを通じて決定される傾向がある」ことを指摘しており、また、右委員会における討議の結果採決された決議第一号は

「一九四九年の団結権及び団体交渉権についての原則の適用に関する条約(第九八号)が、「公務員の地位を取り扱うものではない」と規定しているにもかかわらず、すでに若干の国においては、公務員は同条約の規定の全部又は一部の恩恵を受けているということを認識し

公務員は、九八号条約の定めるところに従い、労働組合活動の自由を侵害するいかなる行為に対しても適切に保護されるべきであることを考慮し」

と述べているのである(なお同条約第六条の英文テキストには、アドミニストレーシヨンに従事するパブリツクサーバンツとある。これは日本訳にいう「公務員」よりもはるかに狭いものがありはしないか。現にILOの条約勧告専門委員会は、一九六七年に、公務員の概念は各国の法律制度の相違に応じてある程度異なるにしても、公権力の機関として行動しない公務員を含まないとの趣旨の報告を提出している。本件では直接この点を問題にするわけではないが、多数意見のいうところが拡張して解釈される虞れもあるので指摘しておく次第である。)。

さらに、公務員のストライキを禁止している国が、果して世界の大多数を占めているかどうか、またそうだとしても、そのことの示す意味については問題があると考える。なるど、数だけからいえば、いまだ少なからざる国が公務員のスト禁止を存しているが、しかし、その大部分は開発途上国か、そうでなくとも農業国なのである。先進工業国としては、僅かにわが国のほか、アメリカ、オランダ、スイスをあげうるにすぎない。しかも、以前から公務員に対するしめ付けのきわめて厳しいアメリカにおいてさえ、近時いくつかの州において禁止を解く立法がつぎつぎに制定されつつあるのである。

もつとも問題の核心は、実は、その点にあるわけではない。本件においてわれわれが特に関心をもたざるをえないのは、禁止違反に対する刑罰規定の有無なのである。この種の規定が、殊に先進国において、果してどれだけあるのか、多数意見は何らふれるところがない。いうところは、単に禁止立法が多くの国に存在しているとしているだけである。本件をいやしくも国際的視野に立つて検討するのであれば、刑罰を裏付けとする公務員のスト禁止立法の状況にこそ目をくばるべきであろう。

九、わが国はいまだ批准していないけれども、人も知るとおりILO一〇五号条約は、同盟罷業に参加したことに対する制裁としての強制労働を、何らの留保をも加えることなく、一般的に禁止している。もつとも、ILO五二回総会(一九六八年)に提出された専門委員会の報告は、「右条約案を審議した総会委員会において、一定の事情の下ならば違法な同盟罷業に参加したことに対して刑務所労働を含む刑罰を科することができるという合意ができたという事実を考慮することが適当」だと述べているのであるが、この見解には概ね異論がないらしい。それ故、仮に右条約を批准しても(わが国の政府が批准を躊躇しているのはその点を懸念するためでもあろうか。)、国公法一一〇条一項一七号なども右条約には抵触しないとする見解もあるようである。しかし、前示専門委員会が刑罰を容認するのは、「エツセンシヤル」すなわち「必要不可欠な役務」についてのみなのである。そして、「必要不可欠」とは、同委員会によれば、「その中断が住民の全部又は一部の存在又は福祉を危うくするような」場合をさしていることを忘れてはならない。

のみならず、結社の自由委員会は、一二号事件において、アルゼンチンでの、スト禁止違反に対する刑事制裁規定につき

「委員会は、公安にかんする(アルゼンチンの)法規に含まれている、ストライキにたいし、これらの規定を適用する必要性をこれまで見出せなかつた旨の(アルゼンチンの)政府陳述に留意するとともに、これらの規定を、職業上の利益を増進擁護するため、労働組合の指導者が自己の通常の任務を遂行した場合に、これに対しては適用することはできないような態様で、上記諸規定を改正することが望ましい旨、(アルゼンチン)政府の注意を喚起するよう、理事会に勧告する。」と述べている。さらに、五五号事件において(これはギリシヤに刑法上のストライキ処罰規定があることを問題にした申立事件である。)、労働者側の申立を却下はしているのであるが、その理由は、右の刑法の規定が今まで実際には適用されたことがなかつたことに「留意」したからであつて、スト禁止違反に対し刑罰を科することをたやすくは是認しないという態度を示しているのである。

要するにILOの一般的傾向としては、公務員のスト禁止違反に対し刑罰特に懲役を科することには甚だ消極的なのである。

翻つて、各先進国の現行法制を見ると、アメリカにおいてこそ、連邦公務員のスト禁止違反に対し一〇〇〇ドル以下の罰金又は一年と一日以下の拘禁もしくはこれを併科するという罰則があるけれども、イギリス、ドイツ及びフランスでは、警察官などについては格別、普通の公務員については、ストライキを禁止する規定がそもそもないのであるから、もとより刑罰の脅威が存在するわけではない。

以上を通観するならば、世界的な潮流は、多数意見の説くところとおよそ方向を異にするものということができるであろう。多数意見は、自らが「国際的視野」に立つているというのであるが、そうであるとしても、わずかに楯の一面を見たにすぎないのではあるまいか。

第二  本件の団体行動は「争議行為」ではない

一、原判決の認定するところによると、被告人らは、昭和三三年一〇月、内閣が警察官職務執行法の一部を改正する法律案を衆議院に提出したとき、これに反対するために(一)時間内職場大会を開催すべき旨の指令を全国の支部、分会に発出したほか(二)農林省庁舎前において勤務時間内二時間の職場集会を計画、同省職員に参加方を慫慂し、かくして争議行為をあおつたというのである。そうである以上、この行動は、国会に労働組合の意思を反映せしめ、立法過程において前記改正の動きを阻止しようとしたのであるから、政治的目的に出たものというべく、そして、集会実施中は、時間は長くないにしても、管理者の意思を排除し、一斉に勤務を放棄するというのであるから、世にいう政治ストにあたるわけである。

しかし、政治ストというのは俗称にすぎず、純然たる政治的目的のための労働組合の統一行動は、たとえそのために業務の阻害を来たしても、労働法上の争議行為たるストライキとは異質なものなのである。例えば、診療報酬の改訂を要求するための医師会のスト(一斉休診)や、入浴料金据置反対のための浴場業者のストなどは、いかなる意味でも争議行為ではないのであるが、いわゆる政治ストも本質的にはこれらと同様であり、法律改正阻止のための、すなわち国会の審議に影響を及ぼし、かつ政府(この場合は統治機関たる政府であつて、使用者たる政府ではない。)に反省を促すための「スト」は、労働法上の争議行為ではないのである。したがつて、労働組合の行動ではあるが、争議権の行使ではなく、憲法二八条の関知せざるところというべきである。

もとより、憲法二八条の保障を受けないからといつて、それだけの理由で、右の「スト」がただちに違法になるものではない。このことは、あえて憲法二一条を引合に出すまでもなく、明らかであろう。大体、労働組合には政治行動をなすについて労働組合なるが故の特別の保障がないだけであつて、一般に組合に対し政治行動が禁止されていると解すべき何らの理由もないからである。

もつとも、国家公務員については、私企業の労働者の場合と異なり、政治的行為制限の規定(国公法一〇二条)があるが、それをうけて政治的行為の細かい内容を定めた人事院規則には憲法上疑義なしとしないのであつて、右の規定だけに依拠して一切の政治行動が禁圧されているとするのは相当ではない。それにまた、公務員労働組合の法律改正反対運動が議会制民主主義に反するときめつけることにも問題がある(多数意見は、公務員の勤務条件は国会の制定した法律、予算によつて定められるのであるから、勤務条件について公務員が争議行為を行なうことは議会制民主主義に反するという。医師の団体や農業団体が、立法の促進や法律改正の反対などを目的として、国会や政府に強力な圧力をかけていることは日常われわれが見聞するところである。歓迎すべき風潮ではないとしても、当事者としては生活権擁護上やむにやまれずしてとる行動であるかも知れず、また一方、これを禁止する法規があるわけではないから、いうまでもなく合法的行為なのである。労働組合としても別異ではない。労働組合は、本来、使用者との間において、労働条件の維持改善を図ることを主たる目的として結成され、発達してきたのであるが、今日の高度経済成長の時代においては、使用者との角逐に全力をそそぐ必要が次第に少なくなり、さらに広い視野に立つての物心両面における生活の向上に努力する傾向が顕著となつた。労働組合のこの機能の変化は、労働者の生活と意識の変化の反映であり、アメリカ型のビジネスユニオンにおいてさえ、単なる賃上げ組合の域にとどまることはできないのである。したがつて、労働組合が、企業の内部にのみ局せきすることなく、進んで、行政や立法に自らの意思を反映せしめようとするのはまさに時代の要請であり、まことに当然のことなのである。労働組合が国会の審議に影響力を及ぼそうとすること自体は、越軌な行動に出るものでないかぎり、国会の機能に直接、何の障碍をも与えるものではないから、非難に値するわけではあるまい。むしろ考えようによれば、国の最高機関として民衆と隔絶した高きにある国会に、民意のあるところを知らしめることは、議会制をして真の民主主義に近づかしめる方途でもあろう。)。労働組合の政治的行動を一概に否定し排撃することは、労働組合が現に営んでいる社会的役割ないし活動を無視するものというべきである。

もとよりそれだからといつて、公務員労働組合の政治的行動がすべて適法だというつもりはない。この点は別個に考察されなければならない。公務員労働組合によつてなされた本件におけるような態様の政治的行動がいかなる法律的評価を受けるものであるかは、憲法一五条及び二一条と国家公務員法との比較考量によつてきめられるべきことである。しかし、国家公務員に対する政治活動の規制とは全く関係のない訴因、罰条をもつて起訴されている本件においては、これ以上、立ち入つた考察をする必要はないと考える。

二、いわゆる政治ストが労働法上の争議行為ではないというためには、労働法上、争議行為とは何かということを解明することが必要であるし、国公法九八条五項で禁止されている争議行為(五項前段は全体として争議行為を禁止しているものと解する。「政府の活動能率を低下させる怠業的行為」も、広義における争議行為の一部である。これを争議行為と別異なものであるとする説もあるけれども、条文上かくのごときまぎらわしい表現になつているのは、占領下における立法過程に通有の、占領軍が作成し日本政府に押しつけた粗雑なドラフトに屈従した結果と見るべく、要するに立法上のミスであつて、後述する判決中で私が詳述した沿革に徴するときは、上述したところ以外の合理的解釈は考えられないのである。)が、労働法上争議行為とよばれるものと同じであることを論証しなければならないのであるが、この問題については、私がかつて詳しく論じたところ(仙台全司法事件大法廷判決中の私の意見刑集二三巻五号七一五頁以下)であるので、これを引用する。

結局、原判決には、法律の解釈を誤つた違法があり破棄を免れないというのが私の結論である。

第三  判例変更の問題について

最後に、一言付加したいことがある。多数意見は仙台全司法事件についての当裁判所の判例は変更すべきものであるとしたのであるが、法律上の見解の当否はしばらく措き、何よりもまず、憲法判例の変更についての基本的な姿勢において、私は、多数意見に、甚だあきたらざるものあるを感ずるのである。この点に関しては、本判決に、裁判官田中二郎、同大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の剴切な意見が付せられており、その所説には私もことごとく賛成であるので、その意見に同調し、私自身の見解の表明に代えることにする。

(石田和外 大隅健一郎 村上朝一 関根小郷 藤林益三 岡原昌男 小川信雄 下田武三 岸盛一 天野武一 坂本吉勝)(田中二郎 岩田誠 下村三郎 色川幸太郎は、退官のため署名押印することができない)

弁護人佐藤義弥、同竹沢哲夫、同内藤功、同東城守一の上告趣意

目次

はしがき

第一点 原判決は憲法第二一条の解釈、適用をあやまっているので破棄を免れない

第二点 原判決の憲法第二八条及び憲法第三一条違反――四・二判決の憲法判断回避に関連して〈省略〉

第三点 原判決は憲法第二八条に違反し、破棄を免れない

第四点 原判決は憲法第三一条に違反し、破棄を免れない

第五点 原判決は憲法第一八条に違反し、破棄を免れない

第六点 原判決は国公法第九八条旧五項、同法第一一〇条第一項一七号の解釈、適用をあやまり、高等裁判所の判例に反し、破棄を免れない

第七点 四・二判決適用上の諸問題

その一 警職法闘争は「労働組合の本来の目的を逸脱し」たものではない〈省略〉

第八点 四・二判決適用上の諸問題

その二 ピケットが争議行為に通常随伴するものであることについて〈省略〉

第九点 四・二判決適用上の諸問題

その三 訴因第二の事実に関する原判決の重大な事実誤認及び証拠に基づかない事実認定について〈省略〉

第十点 原判決は憲法二一条、同二八条、同三一条の解釈を誤るもので破棄を免れない

はしがき

原判決は明かに昭和四四年四月二日言渡最高裁判所大法廷昭和四一年(あ)第四〇一号地公法違反事件判決(以下、四・二都教組判決と略称することもある)同日言渡昭和四一年(あ)第一一二九号国公法違反事件判決(以下四・二安保事件判決、或いは安保六・四判決等と略称する。両者合せて四・二判決と呼ぶ)と法令の解釈に於て相違するものである。従って、原判決の右四・二判決違反、及び四・二判決の法令の解釈を本件事実にどの様に適用するかが、本件上告審に於ける課題であることは云うまでもあるまい。

しかしながら、四・二判決は原判決の宣告後、半年余後に言渡されたものであるから、原判決の四・二判決違反は適法な上告理由とならない。

従って適法な上告理由としては、憲法違反及び高裁判決違反をあげざるを得ないけれども、又原判決宣告当時の全てい中郵事件判決を指導的判例として立論せざるを得ない。

しかしながら四・二判決の理論が如何に本件に適用されるかが、大きな問題であることに鑑み、右適用に当つての、留意すべき事項として、警職法斗争の法律上の評価、ピケツトの争議行為における通常随伴性等に付てあらかじめ若干の主張をしておく。として、これらの点は検察官の答弁乃至主張をまつて、弁護人としてはその主張をするのが相当な問題であるので、本上告趣意書に於ては、一応の主張をするにとどめておく事とする。

第一点原判決は憲法第二一条の解釈、適用をあやまつているので、破棄を免れない。

本件において、憲法第二一条の解釈、適用は二重の意味において決定的な重要性をもつていると考えられる。その第一は、「あおり」行為等、表現の自由に属する行為を独立犯として処罰する法規と憲法二一条との関係であり、第二は、本件における職場大会が原判決によつて「政治スト」と認定されていることと憲法二一条との関係である。以下、そのそれぞれについて分説することとする。

一 「あおり」を行為を独立犯とすることと憲法第二一等。

(一) 昭和三〇年一一月三〇日最高裁大法廷判決を引用していることについて

原判決は国公法一一〇条一項十七号が憲法二一条に違反する旨の控訴趣意に対し、昭和三〇年十一月三〇日最高裁大法廷判決をひいて、三一条違反でないことは何ら疑義はないと云つている。弁護人は敢て原判決の右の判断は、憲法二一条の解釈、適用をあやまつたものとの主張をするものである。

四・二安保事件判決も此の点に関する主張に付て、原判決と同じく昭和三〇年十一月三〇日付大法廷判決を引用して、罰則を限定的に解釈して適用する限りに於て、右規定が憲法二一条に違反するものでないことは更に明白であるとのべている。

右引用の昭和三〇年十一月三〇日付大法廷判決は、言論の自由も無制限ではなくて、公共の福祉により制約されることは当然であるとして、警察官等に対して怠業をあおることが公共の福祉に反するから、そのあおりを処罰することは憲法第二一条に反しないと云うにすぎないものである。その判断は、公務員を一率に全体の奉仕者とし、抽象的な公共の福祉論によつて、刑事制裁を容認した古い理論の基礎の上に立つものである。

憲法二八条に付ても、全体の奉仕者論、抽象的な公共の福祉論によつて労働基本権の制限、及び刑事制裁を合理化して来たのが古い理論であつた。

昭和三九年(あ)第二九六号郵便法違反事件判決(以下全逓中郵事件判決と云う)は、公労法一七条一項が憲法二八条及び十八条に違反しないと判断するにあたつて、昭和二六年(あ)第一六八八号大法廷判決、及び昭和二四年(れ)第六八五号事件大法廷判決を引用していることは公知の通りである。これらの大法廷判決が、古い抽象的公共の福祉論に基くものであり、争議権の制限及び処罰にあたつて、国民全体の利益との個別的、具体的な比較、衡量によるべきものとした前記全逓中郵事件判決の構成の中で古い抽象的公共の福祉論の遺物として残つた感があつた。処が、今回の四・二都教組判決をみると、此の古い大法廷判決の引用は姿を消して、争議行為の禁止及びあおり等の処罰に付て、制限解釈をすることにより、その憲法二八条の上での合憲性を認めたのである。法益の個別的比較、衡量の原則は一般的に四・二判決に於て貫徹した筈である。

処が憲法二一条の面では未だに、此の古い抽象的公共の福祉論に基いて、合憲性を立論する根拠はどこにあるのだろうか。今や、憲法二一条の面に於ても、全体の奉仕者論、抽象的公共の福祉論より脱却しなければならない時である。

(二) 表現活動に該当する行為

本件のように、職場大会への参加を呼びかけたことが、「あおり」行為であるとされる場合は呼びかけ自身が言論活動であり、憲法二一条の保障のもとにあるのである。それと同時に、右の職場大会自体が警職法改悪反対の意思の表明であるから、労働組合としての表現活動であると解することができる。即ち、労働組合も一個の組織体として、或いは社会的存在として表現活動をすることが出来る。その表現活動は労働組合の性格上、社会的存在としての組合の表現活動であると同時に組合全員の表現活動であることが理念的に要請される。抗議の意味をもつた表現活動である場合には益々組合員大衆が意欲的に右表現活動に参加し、「組合員自身のもの」としてなされることが要請されるのである。

此の労働組合としての表現活動が勤務時間中の職場大会と云う形式を以てなされる場合は、一定時間の職場抛棄、外見的には争議行為に該当することとなる。従つて、表現活動としてなされた争議行為が憲法二一条の上でどの様に評価され、その「あおり」行為の処罰が憲法二一条の上でどの様に評価されるかが問題である。

(三) 表現の自由の保障の意味するもの

日本国憲法では、表現の自由は国民の自由権に含まれるものとされ、社会権とならんで、基本的人権とされている。

而して、基本的人権の限界乃至規制の根拠は、他人の人権との矛盾、衝突の調整であり、此の調整の原理は公平の要請、しかも実質的公平の原理であるとされている。(宮沢「憲法」Ⅱ二〇〇頁以下)

此の原則的な問題に付ては、現在略々争がないことと思われるし、此の観点にたてば、憲法二一条によつて保障される表現の自由と憲法二八条によつて保障される勤労者の団結権の間には優劣はないものと見なければならない。

しかも、表現の自由は他の自由権、社会権に比して優越的な地位をしめているとの見解が最近強くなつてきている。これは各国憲法の根幹をなす議院制、選挙制が表現の自由を基礎にして形成されている所からくるものと云われている。

アメリカ法の判例研究に基いて、芦部教授は「言論思想の自由の優越的地位の理論が認められるようになつてからは、修正一条の自由を制限する法律を支持する側が「極めて強い正当化の理由の存在」を現実的に、事実上の基礎を示して証明しなくてはならなくなつた。……この要請に応えるものとして、明白かつ現在の危険、厳格解釈の原則、事前抑制の理論、漠然不明確による無効の理論などとともに、挙証責任の転換が判例法上認められたのである」(清宮記念論文集憲法の諸問題、内、合憲性推定の原則と立法事実の司法審査、五〇八頁)とのべている。即ち、表現の自由の優越な地位が一般的に承認されていること、従つてこれを制限する法律には合憲性推定の原則が存在しないこと、その合憲性を主張する側で、その制限が正当である所以を現実的な、事実上の基礎を示して証明しなければならないことを説いているのである。此の道理は日本国憲法のもとに於ける憲法判断には当然あてはまると考えてよいであろう。

国公法一一〇条一項一七号の規定を合憲とすべき理由について、原判決(および四・二判決)が引用する最高裁判例には、抽象的公共の福祉論しかあげられておらず、これをもつて合憲性が立証されたとは到底いうことができないのである。かりに、全逓中郵判決以降、争議行為と刑罰の関係について採用されてきている可罰的違法性の理論を、この項での問題との関連で用いるとすれば、「あおり」行為の対象となる争議行為自体に可罰的違法性が存在しかつその「あおり」行為に可罰的違法性ありと立証し得る特別の場合のみが、刑罰の対象となり得ることとなるのであつて、抽象的一般的に、公共の福祉を理由とする制限違反に科刑することは許されないと解される。

『政治スト』と憲法二一条

原判決は、「争議行為中特に、政治的目的のために行なわれるいわゆる『政治スト』については、既に中郵判決が、公労法の適用を受ける公共企業体等の現業職員に対してさえ、憲法二八条に保障された争議行為としての正当性の限界を逸脱するものとして刑事制裁を免れないとしているのであるから、いわんや、これらの職員に比しその職務が公共性の強いと認められる国家公務員について、『政治スト』が刑事制裁を免れないのは理の当然であるといわなければならない」(第二部(二))としている。

この判断は、前節の末尾にふれた、「あおり」行為の対象となる争議行為が可罰的違法性ありとする趣旨のものであると考えられる。しかしながら、右の判断は、以下にふれるように誤まりである。

(一) 公共性の差を論拠に用いることはできない。

国家公務員をいわゆる現業と非現業に分け、非現業公務員一般に、より高度の公共性ありとする考え方は、後述(第三点、憲法二八条論)で詳論するように、全逓中郵判決の誤解ないし歪曲にもとずくものである。ひとしく公務員といつても、その職種に多様性があることを看過した議論であるからである。

しかも、公共性の差を論拠とする以上、その職務の停廃によつて国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれのあることが、国公法九八条旧五項による争議行為禁止の立法目的であることを前提とするものでなければならず、そうであれば、国民生活全体の利益を害し、重大な障害をもたらすおそれのない争議行為は、国公法九八条旧五項の禁止の対象となつていないと解すべきこと、後述第三点(憲法二八条論)でも詳論する通りである。

そうであれば、原判決の右に引用した部分は、つまるところ、『政治スト』が可罰的違法性ありとされた場合には、憲法二八条の保障によるいわゆる刑事免責をうけることができず、その意味で刑事制裁を免れないとする趣旨を述べているにすぎず、「政治スト」に可罰的違法性ありとする論拠も証明されていなければ、憲法二一条との関係も論じられていないことは明白である。

(二) 違法性の強弱

四・二判決に所謂政治スト違法論をたて、政治ストは強度の違法性あるものとした。安保反対のための集会であれば、たとえ一時間以内の職場抛棄であつても違法性が強く、賃上げ、或いは自分の労働条件のためであれば一日の休暇斗争であつても、違法性が強くはないと云う考え方のようである。国民の感覚からは到底その合理性を支持することができない。国民の側から見れば自分たちの意思と行動と同じ立場にたつ公務員労組の行動に共感と支持を与えこそすれ、非難は感じない。従つて、経済要求のための争議に比して、安保反対の職場大会が違法性が強いと云うことが納得し得ないことは当然のことである。(一審証人 松岡洋子の証言参照)。

殊に右最高裁判所の云う政治ストなるものは、学者の云う所謂「示威スト」或いは「抗議スト」と呼ぶ表現活動の部類に入るもので、安保問題、或いは沖繩問題、或いはベトナム戦争問題等、国民全体の関心のまととなつている問題に付て、国民の一員となり、その中核となつて、世論の力により、政府の方針の転換等を目的とする運動である。かかる運動である以上、国民生活全体の利益に重大な障害を及ぼすような行動はなし得ないのである。抗議スト、デモストの場合には、通常長くても数時間程度のものであり、国民の生活に影響を及ぼさないように配慮してなされることになる。このような表現活動の反射作用である業務の一時的停廃が経済ストに比して違法性が強いと非難されなければならない合理的理由は少しも見当らない。

四・二判決の前述の見解は、結局、問題を憲法二八条の面よりのみ見て、憲法二一条の面よりのアプローチを忘れた結果である。国民の批判は傾聴しなければならない。

(三) 憲法二一条の観点よりすれば、政治的表現の自由こそ保障されなければならない。

四・二安保事件判決は、既にのべた通り「使用者たる国に対する経済的地位の維持、改善に直接関係があるとはいえない、このような政治的目的のために争議を行なうがごときは争議行為の正当な範囲を逸脱するものとして許さるべきではなく」と判示し、所謂政治ストが違法性が強いものとの判断をしている。而して右のような所謂政治スト違法論の理由に付て、正面から説示する所が何もない。また入江裁判官の意見が「労働争議本来の目的と全く無関係に、例えば専ら政治的目的達成のための政治運動が争議行為の形態をとつてなされたような場合には、そのような争議行為は憲法二八条の保障とは無関係なものというべきであろう」と説示し、岩田裁判官の意見が、「あおり行為等の対象となつた争議行為が国家公務員の勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とするものではなく、例えば政治的意図の達成を目的とするものであるときは、かかる争議行為は憲法二八条の保障するところでない」旨説示している。これを要するに憲法二八条の保障は、労使の対抗関係に於ける労働者の労働条件に関する諸活動に限られるとするもののようである。此の見解の当否はしばらくおいて、四・二判決の「あおり」等の限定解釈の立脚点は正に憲法一八条より流出するものであることは明白である。

処が憲法二一条の保障は正に政治的表現の自由、殊に政府の方針と相反する政治的表現の自由の保障にその真髄があることは今さら云うまでもないであろう。

憲法二一条の保障が、憲法二八条の保障に比して、優位にあると云うことができても、劣位にあるとは到底云うことができないことは既にのべた通りである。処が、四・二安保事件判決は上告趣意第二点に付て「右罰則はこれを限定的に解釈して適用する限りに於て、右規定が憲法二一条に違反するものでないことはさらに明かである」とのべている。これは憲法二八条の理念に基く限定解釈をそのまま憲法二一条にもちこんで合憲たらしめんと云うのであつて、まさに憲法二一条の保障を憲法二八条の保障のもとに従属せしめることであつて、到底正当な憲法解釈と云うことができない。

かりに政治ストが憲法二八条の保障の範囲外であつたにせよ、政治的活動こそまさに憲法二一条の保障のもとにあることは前述した通りである。憲法二八条の保障をうけないということは、いかなる意味においても、その行為の「違法性」を証明する理由とはなり得ず、まして「可罰的違法性」を証明するものであり得ないことは明白である。四・二判決における入江意見が、いわゆる政治ストについて「私はそのような争議行為も実定法たる国公法上の争議行為という中には包含されていると思う」ということを述べながらも、「たとえそのような場合であつてもそのあおり行為等をした者が勤労の自身であれば、現行国公法が、その者者する右のような争議行為自体に刑罰を科さない立前であるとすれば、それとの均衡上、右あおり行為等にのみ刑罰をもつて臨むことは、それが右争議行為に通常随伴するものと認められるものである限り、憲法三一条の要請から、または現行国公法の妥当な解釈の上から、許されないと解するのが相当ではないかと考える」と述べているのは、いわゆる政治ストとそのあおり行為について、特別の可罰的違法性がないことをとらえるものと考えられる。

従つて、いわゆる政治スト違法論を用いることによつて、憲法二一条違反の論点を回避することはできず、この点については原判決も、ただ、四・二判決も、いずれも十分な論証を欠いているといわなければならない。

憲法二八条に基く限定解釈が許されるとすれば、同様に憲法二一条に基き、同法条の理念のもとに新たな角度よりの限定解釈がなされるべきであり、右観点よりすれば原判決ならびに四・二判決における、いわゆる政治スト違法論は、憲法二一条にてらした検証を欠くものとして棄て去られなければならないのである。

(四) 政治的表現活動として見た場合の「あおり」行為処罰の限界に付て、

基本的人権の限界が他人の人権との矛盾、衝突の調整にあることは既にのべた所である。

表現の自由についてもこのことは同様であつて、表現の自由の行使が他人の自由・利益を常に絶対に侵しえないとすることはできない。

全逓中郵事件判決、及び四・二判決が、争議権の限界を国民全体の利益の保障との具体的な比較、衡量に求めたことも原則的には理解し得る所である。此の原則は政治的表現活動の見地によりみれば、「あおり」行為の対象となつた争議行為について、国民的意見の表明活動であること、その表明内容に相応する規模態様を以てなされることが限界とされなければならない。従つてかりにその表現活動によつて、争議行為が不当に長期に及ぶなど、国民生活に重大な支障をおよぼす危険が明白で且現在する場合に、それをおして敢て表現活動とは云え争議行為の結果を招来する活動をなした場合には、限界を逸脱したものとして、その違法性は強いと評価されても止むを得ないかもしれない。

「あおり」行為をとつてみれば、これは組合の活動としてなされる表現活動であるから、四・二判決同様、争議行為に通常随伴するものと認められるものは不可罰と解すべきである。

従つてここには、政治ストだからと云う特別扱いは消滅し、そのかわりに表現活動の相当性と、国民生活に重大な支障を及ぼも明白且、現在する危険と云う限界が設定されることになる。

本件は、警職法改悪反対のための国民的大運動の一環としてなされた職場大会に関するもので、これが争議行為であるとしても、政治的表現活動としての相当性は十分保持しているものであり、国民生活に重大な支障を及ぼす現在、明白な危険もなく、且、職場大会がおわつた後に於て検討してみても、国民生活に重大な支障を及ぼした事実もなかつた。

従つて、かりにこれを政治ストと評価しても無限定的に国公法一一〇条一項一七号を適用した原判決ならびに四・二判決の理論に基いてこれを違法性の強い争議行為であるとして、国公法一一〇条一項一七号によつて処罰することも同時に、憲法二一条の解釈、適用をあやまつたもので、憲法二一条の解釈上本件の如き、政治的表現活動に右法条を適用するのは違憲と解せざるを得ない。よつて、原判決は憲法二一条違反を以て破棄せざるを得ない。

第二点原判決の憲法二八条及び憲法三一条違反――四・二判決の憲法判断回避に関連して――〈省略〉

第三点原判決は憲法二八条に違反し、破棄を免れない。

一、国公法九八条旧五項について

原判決は、国公法九八条旧五項と憲法二八条との関係について、「およそ国公法第九八条旧第五項……が同法の適用を受ける非現業の国家公務員……の一切の争議行為を禁止していることは明白であり、これは国家公務員の公共的性格上当然と解すべきである」(第二部(一))と述べ、最高裁大法廷による全逓中郵事件判決が公労法一七条一項が「違憲無効ということはできない旨を判示し、更に国家公務員と右の現業職員とを比較し、前者の方が公共性の強いことは疑いをいれない旨を判示しているのであるから、国家公務員の争議行為を禁止している国公法第九八条旧第五項が憲法第二八条に適合する点については、いささかも疑問の余地がないといわなければならない」(第四部(一))とその理由を説明している。

しかしながら右の判断は、憲法二八条に違反する。なぜなら、公務員についても憲法二八条の適用があること明白である以上、「実定法規によつて労働基本権の制限を定めている場合にも、労働基本権保障の根本精神にそくしてその制限の意味を考察すべきであり、ことに生存権の保障を基本理念とし、財産権の保障と並んで勤労者の労働権、団結権、団体交渉権、争議権の保障をしている法体制のもとでは、これら両者の間の調和と均衡が保たれるように、実定法規の適切妥当な法解釈をしなければならない」(全逓中郵判決)のであつて、その観点を全く欠落しているからである。

右の観点をとれば、「公務員の職務の性質・内容は、きわめて多種多様であり……いちがいにその公共性を理由として、これを一律に規制しようとする態度」(東京都教組事件大法廷判決)はきわめて問題である。なぜなら、「公務員の職務は、一般的にいえば、多かれ少なかれ、公共性を有するとはいえ、……公共性の程度は強弱さまざまで、その争議行為が常に直ちに公務の停廃をきたし、ひいては国民生活全体の利益を害するとはいえない」(同右)からである。この理をわきまえずに、単に、現業か非現業かという合理性のない分類により、かつ、現業に比して非現業公務員の公共性が高いとする根拠のない予断をもつて憲法二八条に違反しない旨の結論をみちびき出した原判決の誤まりは明白である。

また、一切の争議行為が禁止されていることを合憲とみる原判決は、「ひとしく争議行為といつても種々の態様のものがあり、きわめて短時間の同盟罷業または怠業のような単純な不作為のごときは、直ちに国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な支障をもたらすおそれがあるとは必ずしもいえない」(同右判決)理を看過したものである。この点においてもまた、憲法二八条に違反するものであることは明らかである。

二、国公法一一〇条一項一七号について

原判決は、国公法一一〇条一項一七号について、争議行為の一律全面的禁止が憲法二八条に違反しないとする前述の誤つた判断を基礎としながら、次のように判断している。すなわち、「国家公務員につき争議権の行使が禁止されている現状に照らせば、その発生を防止すべきは当然であるところ、争議行為の共謀、そそのかし行為、あおり行為等の指導的行為は、争議行為の原動力、支柱となり、これを誘発する危険性のあるものであるから、その反社会性、反規範性、有害性において、争議の実行行為そのものよりも違法性が強く、可罰の必要があると解すべきであり、又、かく解しても何ら合理的根拠に欠けるものではない。」したがつて本件一審判決のように「憲法違反となる結果を回避するため特に『あおる』行為等の概念を縮少解釈しなければならない必然性はない」としている(第二部(二))。

しかしながらこの判断は、争議行為の全面的一律的禁止を合憲とする「現状に徴」して(第二部(一)第四部(一)は、何れも現状を強調する)のみ成り立つ議論であつて、前述のように、かかる現状が憲法二八条に違反することが明白である以上、「あおり」行為等についての右の判断もまた、憲法二八条に違反すること明白である。つまり、争議行為を一律全面的に禁止したうえで、それらの争議行為のあおり行為等の「すべてを処罰する趣旨と解すべきものとすれば、これは、前叙の公務員の労働基本権を保障した憲法の趣旨に反し必要やむを得ない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最小限度にとどめなければならないとの要請を無視し、その限度をこえて刑罰の対象としているものとしてこれらの規定は、いずれも違憲の疑を免れない」(都教組事件判決)からである。

以上の二点のいずれから考察してみても、原審判決が、全逓中郵事件判決を誤解、歪曲したものであり、憲法二八条に違反するものであることは明白であつて、破棄を免れないと解する。

第四点原判決は憲法三一条に違反し、破棄を免れない。

一、原判決は「あおり」行為等の概念の不明確性、及び争議行為の実行が不可罰であるのに、その「あおり」等が可罰とされることの刑罰規定上の不合理さに基く、憲法三一条違反の主張に対し、「あおり」行為等の概念内容は明確であるのみならず、「あおり」行為等処罰は争議行為の原動力処罰であり、合理性があるとして、憲法三一条違反の主張を排斥している。われわれは、再度最高裁判所に対し同趣旨に基く主張をなし、これに対する判断を求めるものである。

既に四・二安保事件判決は此の点については、国公法一一〇条一項十七号に云う「共謀」「そそのかし」「あおり」の解釈をして、これを以て構成要件が「内容が漠然としているとはいいがたい」とのべているが、そのような解釈をしても、不明性はなくならないことを指摘したい。

尚右判決は「違法な争議行為につき、その前段階的行為であるあおり行為等のみを独立犯として処罰することは、政策的に妥当といえるかどうかは別論として、必らずしも不合理とはいいがたく」とのべているがこれは争議行為ならびにあおり行為等に付て各々限定解釈をし、それにより、あおり行為の処罰の合理性を導き出そうとしているもののようであるが、かかる限定解釈により違憲性を回避することが更に憲法三一条に反する問題については別にのべることとする。此所では、四・二判決は原判決以後の判決である点に鑑み、全てい中郵判決を基礎とした議論をなさざるを得ない。

二、国公法一一〇条一項一七号の構成要件の解釈について。

(1) 「共謀」

都教組二審判決は「共謀」について、争議行為の「企画、立案、討議、決定はそれ自体違法行為の共謀行為として処罰の対象となるものである。ところがそれが組織の中において組織の意思決定という形をとつて民主的になされるために、法律が最も処罰の対象として重視する、これらの共謀行為を犯罪事実として把握することが困難な場合さえありうる」と述べているだけで、積極的にその解釈を明らかにしていない。しかし争議行為が民主的な組織的意思決定によつてなされるという実態に即して事実を見るとき「共謀」を犯罪事実として把握することが困難であることを認める他はなかつたということだけを指摘しておきたい。それは、「共謀」という罪となるべき行為が、極めて不明確であり、曖昧であることの自認に他ならないからである。

直接「共謀」の解釈に触れた大教組判決は「刑法上の所謂共謀共同正犯のそれと別異のものと解すべきものとは考えられない。即ち、それは二人以上の者が……争議行為等を行うため共同意思の下に一体となつて互いに他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなすこと(昭和三三年五月二八日最高裁大法廷判決)をいうものであつて、単なる意思の連絡では足りないが、必しも明示的になされる必要はない。」と解すべきであるとしている。これに対し、和教組一審判決は「争議行為実行の意思をもつて、その実行方について共通の意思決定を行うことをいう。)とし、群教組判決も「二人以上の者の間で違法行為の実行について事前の謀議(協議)を成立させることをいう。」と、極めて簡単な判示に止つている。他方、福岡教組一審判決は、「講学上或いは判例上に通常用いられている『共謀』の概念中より、一般参加者たるに止まる者による共謀を除き、それ以外の者による。そして何らかの意味でかかる一般参加者の行為に比しより重要な役割を認められる共謀を意味する。」として限定的な解釈を行なつていた。この福岡教組一審判決は、「一般参加者たたるに止まる者を処罰の対象から除外している趣意に鑑み」て、このような限定を加えたというのであるが、その趣意は、「共謀」以外の「そそのかし」「あおり」「企て」にも及ぶ筈であるのにこの態度を一貫していない。そればかりでなく、「一般参加者とそれ以外の者」を、又、「一般の共謀と、より重要な役割を認められる共謀」を区別する客観的合理的基準を求めることは事実上不可能という他はないのである。

四・二安保事件判決は、大教組事件判決と同じ解釈をしている。

(2) 「そそのかし」

都教組二審判決は、「そそのかし」とは、「違法行為を実行させる目的をもつて人に対し、その行為を実行する決意を新たに生ぜさせるに足りる慫慂行為」であるといい昭和二九年四月二七日最高裁第三小法廷判決の判示によつており、爾余の判例も殆ど同様の解釈をとつている。ただ、福岡教組第一審判決のみは、「そそのかし、あおり」が「せん動」であるといい、「『そそのかし』はせん動のうち実行の決意を新たに生ぜしめる行為を意味し、『あおり』はせん動のうち既に生じていて実行の決意を助長する行為を意味する」とし「『せん動』は『勢のある刺激を与える』とか『中正の判断を失して……』」とかいう要素を含むものであるから、相手方の感情に訴える方法により決意を創生もしくは助長せしめることを意味する」という特殊な解釈をとつている。この福岡教組一審判決は「そそのかし」と「あおり」との区別を明確ならしめようとする解釈態度を示すものとして注目されるのである。四・二安保事件判決は都教組二審判決と同じ解釈をとつている。

(3) 「あおり」

都教組二審判決は、「あおり」は「煽動」と同議であるとし、「特定の行為を実行させる目的をもつて、文書、図書または言動によつて、他人に対しその行為を実行する決意を生ぜしめるような、または、すでに生じている決意を助長させるような、勢いのある刺激を与えることをいう」と判示している。この点は(2)で触れた福岡教組第一審判決を除くその余の各判決も略々同様である。原判決及び四・二安保事件判決も同じ解釈をとつている。

ところが、「あおり」に関する各定義特に「勢いのある刺戟」という点について、「あおり」を感情にうつたえる方法による行為であるとする都教組一審判決、群教組判決、京教組判決(福岡教組一審判決も同様)と、必しも感情にうつたえる方法のみに限定されるものではないとする都教組二審判決、和教組一審判決、岩教組判決原判決とが鋭く対立している。しかしこの点に関し四・二安保事件判決は触れる所がない。

この点は、「あおり」を「そそのかし」とどう区別するかという重要な問題にかかわるので、後に項をあらためて詳論することにしたい。

(4) 「企てる」

大教組判決は、「共謀し、若しくはそそのかし、又はあおる行為の準備をすることをいい、単にこれらの行為の実行を決意したのみでは足りないが、その決意の存在が実行に向けられた外部的行為によつて認識し得る状態に達すれば足りる」とし、高知北川教組、群教組の両判決が、「共謀、そそのかし、あおる行為の準備をすることをいう」としているのもおそらく同趣旨であろう。

以上の三判決の見解は、「実行行為の準備をすることをいい、実行行為の未遂は勿論予備の段階をも含む。」という本件一審判決を併せてみると、その趣旨がより徹底するのではなかろうか。原判決も此の解釈に付ては概ね一審判決通りである。

福岡教組一審判決は、「そそのかし、若しくはあおりという言論表現活動そのものではなく、それを企てるというさらに間接的な行為まで処罰の対象とする趣旨と解される」とし「明白且つ現在の危険の基準」に照らし違憲の疑いがあるとさえしている。

ところが、これ程問題を含んでいる「企て」について、四・二安保事件判決は何等の言及もしていない。

以上、判例を中心に四種の行為の定義を概観したのであるが、裁判所を異にする毎に、その解釈は区々であり、その定義自体がいかに困難であるかということが知られ、これだけからみても構成要件として不明確であるという譏を免れ得ないといい得るのである。

しかし、四種の概念を概念として確定することは、それ自体不可能と断ずることはできないであろうが、その定義に従つて、争議行為が現実に行なわれ場合に通常生起する事態を正確にその四種の概念を用いて、把握するということ(特に不可罰的な争議行為そのものをとり込まないようにそれらを規定し運用すること)はおそらく不可能であるといつて差支えないと思われる。

国公法一一〇条一項一七号の不明確性を端的に指摘するため、主要な問題の二、三を挙げて検討を加えることにしたい。

三、国公法一一〇条一項一七号が、処罰の対象として挙げているのは、国公法第九八条旧五項に規定する違法な行為、(争議行為及び怠業的行為の遂行を「共謀し、そそのかし、若しくはあおり、またはこれらの行為を企てる」という四種の行為)に限定されている。

したがつて、争議行為等を現実に行つたということ、いわばその実行行為に対して、刑事罰が加えられることはない。このことは特に論ずるまでもないところであり、全逓東京中郵事件の大法廷判決が「単純に争議行為を行つた者」に対しては刑事制裁を課せられることがないとしたのもその趣旨を明らかにしたものと解される。

この、いわゆる実行行為不可罰は別に論ぜられるように憲法第二八条、第一八条の要請にもとずくものというべきであるが、構成要件の不明確性を明らかにするためには、必しもその結論に俟つ要はない。

ここでは、国公法第一一〇条一項十七号が処罰の対象から除外している争議行為の実行行為者と、争議行為遂行を「共謀、そそのかし、あおり、企てた」者との限界が明確に画されるかどうかということを考察すれば足るからである。

争議行為は決して個々の労働者(職員)の個別的行為ではなく、労働者の団体=組合の行為である。争議行為をやろうとする組合の意思は、組合の構成員の全員の意思にもとずいて民主的に決定される。

争議行為が行なわれるときには、必ず事前に争議行為を行なうべきであるという意見が個別的に表明され、組織的な討議を経て、やがて組織としての意思決定がなされる。このように、組織的意思決定がなされるまでの過程は勿論のこと、その決定にもとずいて争議行為が実施され、争議行為が継続されている期間を含めて、争議行為の終結に至るすべての段階において、組合各機関で争議行為に関する討議が反覆され、「争議をやろう」「争議実施に賛成しよう」「争議に加わろう」「争議を続けよう」といつた意見表明がなされ、説得がなされ、慫慂が行なわれる。組織が民主的であればあるだけ、このような討議は最も広汎にしかも徹底的になされる。この種の討議は、組合の正式な機関においてなされるだけでは決してない。争議は利害の対立する使用者(当局)との間の斗争という異常な場における行動であり、つねに相手方からの攻撃にさらされながら展開されるもので、そこでは最も強固な団結が要請され、組織の構成員はしばしば生活のすべてを斗いに賭けるといつても過言ではない。始業前、終業後、勤務の休憩時、休日といつたあらゆる時間に、そうして、あらゆる機会に争議行為に関する話題がとり上げられ討議、説得、慫慂が繰返えされるのである。このようなあらゆる話合いの中で、或いは対抗する使用者(当局)の非を糾弾し、或いは、労働者としての自覚に愬えるなど、説得、慫慂を効果あらしめるように種々の修飾を加えた表現がなされることはいうまでもない。

争議行為を実施しようとする程の組織において、組織の構成員の大多数に、積極的な表現活動が見られるのでなければ争議行為は決して現実性をもち得るものではない。

このようにして、争議行為が実行される限り、そこには構成員の全員に争議行争の遂行の「共謀」が存するといつてよいであろうし、少くとも争議行為の実行に加わつた組合員の全員について「共謀」の成立を認めざるを得ないであろう。又「そそのかし」「あおり」に該当する行為を行なわなかつた組合員を見出すことは不可能であるといつて過言ではないのである。

その上、国公法第一一〇条一項十七号については、刑法の共犯規定の適用があるという見解(本件においても共謀共同正犯の訴追がなされている)をとれば、それぞれについて、共同正犯、教唆、幇助が問題とされることになる筈であり、処罰の対象は極めて広汎なものとなる。

結局、国公法第一一〇条一項十七号を、字義通り、争議行為の主体である団体の構成員をも含む「何人に」対しても適用されるものと解する限り、それは必ず争議行為参加者の全員に対して処罰をもつて臨むという結果を招来することにならざるを得ない。

これでは、国公法第一一〇条一項十七号が、争議行為の実行行為者を処罰しないとする趣旨は全く失われてしまう。

本件一審判決が「争議行為に通常不可分な随伴行為」を除くとのべ、都教組一審判決が「争議行為に通常随伴する行為」を除き、和教組二審判決が「争議行為に必要不可欠か、または通常随伴するいわばその構成分子と考えられ、広い意味において、争議行為の遂行と同等の評価を受ける行為」を除き、更に、京教組判決が「争議行為の目的完遂のために必要不可欠か、もしくは争議行為に通常随伴する行為であつて、その手段、方法等において、正当性の限界を超えないもの」を除くというやり方で「あおり」の概念を限定し、福岡教組一審判決が「一般参加者たるに止まる者による共謀」を除くというやり方で「共謀」の概念を限定しようとした重要な契機が争議行為の実行行為者を処罰しないとする国公法第一一〇条一項十七号の意図を全うせしめようとする点にあつたことは右各判決によつて明らかである。四・二判決も「争議行為に通常随伴する行為」を除くと判示するに至つたのも正に同趣旨である。

しかし、これらの判決の努力にもかかわらず、依然として、構成要件として明確かどうかという問題は解決しない。何をもつて「争議行為に必要不可欠といい、通常随伴というか」ということは不明確であり、何をもつて「一般参加者たるに止まる」と見るかということが明確ではないからである。

争議行為の実態を踏まえて、国公法第一一〇条一項十七号の規定を考えるとき、処罰さるべき「共謀、そそのかし、あおり、企て」行為と、処罰されない争議行為の実行行為の限界を明確に画することはできないのである。

所詮、国公法第一一〇条一項十七号の構成要件は不明確であるという他はないのである。

次ぎに問題となるのは「企て」である。

国公法第九八条旧五項後段は「何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。」と規定しているが、同法第一一〇条一項十七号にいう「企て」は「遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり」にかかるのであつて、決して、争議行為等を「企て」ることを意味するものではない。

つまり、国公法第九八条旧五項と同法第一一〇条一項十七号を対比するとき、「争議行為等の企て」が処罰の対象から除外されていることは明らかである。

ところが原判決は「あおる等の実行を計画する行為があれば直ちに『企てる』罪が成立する』という。すなわち、原判決は「あおりの計画」は「争議行為等の企て」ではないというらいし。そうすると、原判決は一体、処罰の対象となる筈のない「争議行為等の企て」をどう解釈するというのであろう。原判決の何処にもその解釈は明示されていない。これでは、処罰される争議行為のあおりの計画と処罰されない争議行為等の企てとの限界が明確になされているとはいい難い。

とにかく、「争議行為等の企て」という行為概念を明確にとらえることなしに、国公法第一一〇条一項十七号の構成要件を明確ならしめることはできないのである。

「企て」という概念が、既述の判例のいうとおりであるとすると、「争議行為等の企て」というのは「争議行為等の準備をすることである」ということになると思われるが、これは極めて広汎な、しかも漠然とした概念であり、原判決の右判示からもうかがえるように、争議行為等の遂行の「共謀、そそのかし、あおり」との限界を画することは容易ではない。まして「共謀の企て」「そそのかしの企て」「あおりの企て」との関係をも含めて考慮しなければならないということであつてみれば、論理的な操作自体も極めて困難なことであろう。

それよりも、より一層困難なことは、既に前に指摘した争議行為の実態の下で、その概念を適確に駆使することができるかどうかというところにある。ここでは、三において述べた争議行為の実態の外に、争議行為というものは、それを実施しようとする労働者団体にとつて、目的ではなく要求獲得の一手段でしかないという点も指摘しておかなければならない。というのは「争議行為等の企て」と「争議行為等の遂行の共謀の企て」等を「遂行」というところに着眼して区別しようとする見解があり得るかも知れないからである。

元来、争議行為は労働組合等の団体が有利な労働条件の獲得その他の要求を達成(目的)するための手段であつて、争議行為の実施それ自体を目的とするものでは決してない。むしろ、いかなる場合においても争議行為はその相手方たる使用者のみならず、その実施主体にとつても、回避こそが望ましいのである。いいかえれば、争議行為はそれを実施するという態勢を整えることにより、その威力によつて相手を屈伏せしめることができればそれをもつて足るという性質をもつているのであつて、争議行為を発起するものも、その実施に賛成する者も、争議行為に関与するすべての者が本来の要求の実現をこそ願え、何が何でも争議行為を行なわなければと考える者はないのである。更にいえば、争議行為は、それがいよいよ実施に移される迄の間は、つねに「かくかくの条件が充されるのでなければ」という、主として相手方の態度如何という未確定の条件によつて、その実施の如何が決せられるものであり、その条件の内容は争議がある種の取引手段であるところから、外部に明示された条件内容と一致するとは限らない。むしろ、多くの場合、明示された条件とは下廻る内容でもつて争議が妥結に至るというのが通例である。

こういう争議行為の実態をみるとき、争議行為の「遂行」ということを、争議行為の実行という結果から切離して考えようといつても無理である。ところが、国公法第一一〇条一項十七号の構成要件は、いわゆる独立犯の規定であり、争議行為が実行されたかどうかということは、犯罪の成否に関係がないというのが通説的見解とされている。この見解に立つて、現実を見る限り「争議行為の準備」と「争議行為の遂行の準備」を区別しようといつても到底区別のできようはない。「遂行」という文言に重要な意味を認めようというような発想は決して客観的合理性をもつことはできないのである。

「争議行為等の企て」争議行為等の遂行の「共謀」及び「共謀の企て」「そそのかし」及び「そそのかしの企て」「あおり」及び「あおりの企て」という七種の概念を用いて、争議行為が実施される場合のすべての過程に通常見受けられる事象を適確に分類することができるであろうか。おそらく、事実の一側面を断面的にとらえて観念的に事を論ずるのであればいざ知らず、(実はそれさえもできないと思われる)一箇の事実として評価さるべき生の事象をとらえて、「争議行為等の企て」を処罰対象としないという趣旨を生かそうとすれば、「共謀、そそのかし、あおり、企て」を適用する余地は極めて異常な事態でも想定しない限り皆無に近いことになるであろうし、逆に処罰さるべき「共謀、そそのかし、あおり、企て」を広く解するとすれば、罪とならない「争議行為等の企て」と目すべき事実が殆んど皆無ということになるであろう。

(原判決は、「あおり」についての共謀共同正犯を認定しており、国公法第一一〇条一項十七号については、刑法総則の共犯規定の適用があるとしている。そうすると、「共謀、そそのかし、あおり、及びそれらの企て」についてそれぞれ共謀共同正犯、教唆犯、幇助犯が考えられることになる。しぜん、「共謀の共謀(共同正犯)」とか「そそのかしの教唆」といつた類型が生れるばかりでなく、「共謀の企ての共謀」とか、「そそのかしの企ての教唆」といつた奇妙な類型も生ずる筈であり、とても収拾のつかない事態に陥るに違いない。)

要するに、処罰の対象とならないことの明らかな「争議行為等の企て」という概念との関係において、地公法第一一〇条一項十七号の構成要件は極めて不明確であるといわざるを得ないのである。

四、国公法第一二〇条一項七号の定める四種の行為概念を検討する中で触れたように「そそのかし」と「あおり」の区別の問題を考えることにしよう。

福岡教組一審判決のように割切れば、「そそのかし」と「あおり」の区別は一応明らかであるといえようが、「あおり」には、犯意のない者に犯意を生ぜしめるいわば教唆類似の場合と、すでに犯意を生じている者についてその犯意を強固ならしめるいわば幇助類似の場合の二種を含むとするのが通説的見解と見られる。

したがつて、問題は、教唆類似の「あおり」と、「そそのかし」との区別如何というところにある。

この両者を区別するため、専ら対象者の数に着目し「そそのかし」は「少数」「特定」「少数又は特定」の者に対する行為であり、「あおり」は「不特定又は多数」の者に対する行為であるとする見解も見受けられるが、こうした見解は、「そそのかし」に関する昭和三九年四月二七日最高裁三小法廷判決、「あおり」に関する昭和三七年二月二一日最高裁大法廷判決の各判示に照らして容れられるべくもない。「不特定、多数」に対する「そそのかし」及び「特定、少数」に対する「あおり」が全くあり得ないというような解釈は到底成り立つものではない。

「あおり」と「そそのかし」の両者は、控訴審に於て詳論した通り感情にうつたえるか、理性にうつたえるかということによつて区別するほかはないのである。

この点について、原判決は「あおり」について「刺戟である以上感情に作用することはいうまでもないが、ただ感情を興奮、高揚させることではなく、違法行為実行の決意に影響力のある刺戟であるから、意思作用を動かす面での強い刺戟である。」という。これでは切角「あおり」の定義に「勢のある刺戟を与える。」という字句を用いた意味が全くなくなつてしまい、「そそのかし」との区別は全く不可能となつてしまうのである。岩教組判決が「あおり」と「そそのかし」の「両者の厳密な区別は、限界的事件については、容易でなく両者を強いて区別することは、かえつて不自然を招くこととなり、むしろ両者は重り合う概念である」と告白せざるを得なかつたのは当然というべきである。しかし、「重なり合う概念」を認めるということは、それが構成要件としての機能を果し得ないということを承認することに他ならないのである。

「あおり」と「そそのかし」の両概念の区別は、前者を理性にうつたえるものとし、後者を感情にうつたえるものとしてはじめて可能となるのであり、この差異を無視する解釈がとられる限り、構成要件としての明確性を欠くに至ることは明らかである。

五、最後に国公法第一一〇条一項一七号の規定が、極めて不合理であり憲法第三一条に違反するという弁護人らの主張に対して、合理的であるということをいうために原判決が原動力論をとり、「争議行為の原動力となる指導的行為を処罰するのであるから合理性に欠ける所はない」とした点について、構成要件の不明確性という観点からの考察を加えておくことにしたい。

この点については、全逓東京中郵事件判決も傍論として、「その趣旨は、一方でこれらの公務員の争議行為は公共の福祉の要請によつて禁止されるけれども、他方でこれらの公務員も勤労者であり、憲法によつて労働基本権を保障されているから、この要請と保障を適当に調整するために単純に争議行為を行つた者に対しては、民事制裁を課するにとどめ積極的に争議行為を指導した者にかぎつて、さらに刑事制裁を課することにしたものと認められる。」とし、和教組一審判決も、争議行為を「企画し、説得し、指示、指令する等、争議行為の原動力となるものは、組合幹部である。」「組合の幹部として、その争議行為を指導したものについては責任を負わせるという考え方」を基底とするとほぼ同趣旨と見られる判示をしていた。

一体、国公法第一一〇条一項十七号を「積極的に争議行為を指導した者」或いは「組織の幹部として争議行為を指導した者」もしくは「争議行為の原動力となる組織指導者」のみを処罰しようとする規定であると解釈することができるであろうか。(この三つの表現がそれぞれ相違し、その意味内容も異なるのであるが、ここではその点を措いて、以下これらを総称して積極的指導者ということにする。)後に触れるように、元来、国公法第一一〇条一項十七号が、その冒頭において「何人たるを問わず」としている点について解釈上の問題があるのであるが、都教組二審判決、和教組一審判決は、これを字義通りに解すべきであつて、地公法第六一条四号について、その行為主体について何等の限定も設けていないというのである。もしそうだとすれば、国公法一一〇条一項十七号が積極的指導者のみを処罰し、単純に争議行為を行つた者を処罰の対象としていないというためには、そこに挙げられている「共謀し、そそのかし、もしくはあおり、又これらの行為を企てた」という四種の行為類型が、積極的指導者のみに特有なものであるか、或いは、積極的指導行為の類型といえるのでなければならないことはいうまでもなかろう。しかしながら、「共謀、そそのかし、あおり、企て」が、決して積極的指導者のみに特有なものでもなければ、積極的指導行為の類型といい得るものでもないということは、既に前に右処罰規定が、結局争議行為の実行行為者全員を処罰する規定であるということを明らかにしたところによつて明白である。争議行為の遂行を「共謀、そそのかし、あおり、企てる」ことは、争議行為の主体となる団体に普遁的な事象であり、組織の指導者ないしは幹部であると、一般構成員であるとを問わず、その全構成員によつてなされるのであり、「共謀、そそのかし、あおり、企て」が積極的指導行為であるというのであれば、「単純に争議行為を行つた者」は皆無となるといつても決して過言ではないのである。

さればこそ、全逓東京中郵事件大法廷判決後になされた群教組、福岡教組二審、佐賀教組二審、和教組二審の各判決が悉く、積極的指導者処罰論に批判を集中するに至つたのである。

とりわけ和教組二審判決は、「争議行為はほんらい一連の団体行動として、すなわち、それが実行されるに至る過程においては、……企画、立案にはじまり討論、決定、説得、慫慂、指令、指示の発出、伝達等の諸々の一連の行為の集積の結果行なわれのが通例である。(中略)そして、争議行為遂行に至る過程において行うこれらの行為は組合幹部より一般組合員に対してなされるばかりでなく、一般組合員より組合幹部に対しても、また組合員相互間においてもなされるものであり、一般的定義にしたがうと、これらの行為は争議行為等の『共謀』、『そそのかし』『あおり』あるいは『これらの行為の企て』のいずれかに該当すると認められるから、争議行為等は組合員による民主的決定によつて、実行されることを考慮すると、争議行為等の実行行為者である大多数の組合員がその遂行の『共謀』等のいずれかをしたことになり、これらの者がすべて積極的指導をした者として処罰されることになる。」として、積極的指導者論を徹底的に排撃し、群教組判決も「もとより、団体の中枢にある幹部の行為と下部組織の末端構成員の行為とでは、争議行為の全体に対する影響力に相違のあることを看過することはできない。しかし、前記の構成要件上両者を区別することはまつたく不可能である。」としている。

ともあれ、国公法第一一〇条一項十七号を積極的指導者を処罰する規定と解することはできないのであり、もし、その解釈をとろうというのであれば、右規定の構成要件はいよいよ不明確であるという他はないのである。

六、以上によつて国公法第一一〇条一項十七号の中心的な論点について、その不明確性を明らかにし得たと信ずるものであるが、問題点は決して上述したところによつて尽くされているのではない。以下、解釈上問題と思われる二点を指摘しておきたい。

(1) 「何人たるを問わず」

国公法第一一〇条一項十七号の行為主体に関して、すべての判例は、同号の冒頭に「何人たるを問わず」と記されているところから、争議行為等の主体となる団体の構成員である職員たると否とを問わないという趣旨であるとし、このことは文理上疑いを容れないところであるとしている。ところが、既述のとおり、争議行為等の遂行を「共謀、そそのかし、あおり、企て」を対象として、争議行為の主体となる団体構成員たる職員をも含めて処罰されるということになると争議行為等の実行行為者であつて処罰の対象とならないものは皆無となり実行行為者を処罰の対象から除外した右規定の趣旨は全く没却されてしまう。

右規定の立法の経緯は次の通りである。昭和二三年一二月に制定された国家公務員法第一一〇条一七号は、公務員の争議行為の実行行為に対して刑罰をもつて臨むこととした政令第二〇一号を緩和修正するものであつたのである。政令第二〇一号の公布当時、これに反対する労働者が集団的に職場を放棄したため政令違反で訴追されるものが相次いだ。しかし、この政令には、公務員以外の者が、外部からする働きかけを禁止する規定をもつていなかつたため、各地の共産党組織或いは経営内部の党組織の動きを捕捉してこれを訴追し得なかつた。当時、我が国の立法をも含むすべての政治を支配していた占領軍が、共産主義の浸透を懸念し、共産党の動向に注視していたことは公知の事実であり、国公法第一一〇条一七号の制定に当つて占領軍の関係者が、公務員自身は処罰できないにしても、公務員の争議行為を煽動する「代々木」の連中を放つておくわけにはゆかぬという示唆を与えたということが伝えられている。

こうした立法経緯は、この処罰規定が、実は、職員に向けられたものではないということを示しているのである。

争議行為を禁止しようとする国公法は、職員に対しては懲戒権を以て処理できるが懲戒権の及ばない非職員である第三者を取り締るために刑事罰の規定を設けたと解されるのであり、このように解釈するのでなければ、争議行為の実行行為を処罰の対象としていない右の規定を矛盾なく理解することはできないのである。

ちなみに、我が国の敗戦直前まで、効力を有していた労働争議調停法第一九条は、「現ニ其ノ争議ニ関係アル使用者及ビ労働者並ニソノ属スル使用者団体及ビ労働者団体ノ役員及ビ事務員」を特に、争議行為を「誘惑モシクハ煽動」したことを理由とする同法第二二条の刑事罰の適用から除外していたのであり、これは、地公法第六一条四号が、争議集団の構成員たる職員を対象とするものではないとする解釈と、全くその軌を一にするものである。

(2) 違法な争議行為等

国公法第一一〇条一項十七号がひいている同法第九八条旧五項前段には、「同盟罷業、怠業、その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない」と規定されている。

ここにいう「争議行為」については、一般労働法におけると同様、労働関係調整法第七条の定義にしたがつて「労働関係の当事者がその主張を貫徹することを目的として行う行為であつて、業務の正常な運営を阻害するものをいう」というのが通説的解釈であるが、「怠業的行為」については、むしろ、怠業と怠業的行為とはともに争議行為といつてよいといわれている。(浅井清著「国家公務員法精義」七〇六頁)くらいであつて、関係の文献を見ても「怠業的行為」を「争議行為」から区別して明確に定義しているものは皆無である。地公法第六一条四号や国公法第一一〇条一七号に関する多数の判例の中で、この点に言及したものは全く見当らないのであり、ここにも規定の不明確性が見られるのである。

さらにここで注目しなくてはならないのは、国公法第一一〇条一項十七号が「第九八条旧五項前段に規定する違法な行為の遂行を……」としている点である。もし、この規定が、争議行為又は怠業的行為の遂行を……」というただそれだけの趣旨であるならば、「第九八条第五項前段の規定に違反する行為の遂行を……」と表現すれば足るのであり、わざわざ「違法な」という表現を用いることはあるまい。ここに「違法な」とされているのは、決して、単に「違反」ということを意味すると解すべきではなく、国公法第九八条第五項前段の規定に違反する行為のうち、「違法」の評価に値いするもののみに限定するという趣旨を示しているものと解すべきであろう。

福岡教組第二審、佐賀教組第二審、群教組、高知北川村教組の各判決は、憲法第二八条、第一八条、第三一条との関連において、地公法第六一条四号にいう争議行為等は、同法第三七条一項前段にいう争議行為等のうち、「違法性の強い争議行為」もしくは「可罰的違法性ある争議行為」のみに限定されると解すべきであるとしたのであるが、前記の「違法な」と表現されている文言を根拠として、同様な結論に到達することも充分に可能である。

なぜかといえば、違法性の基準は、結局、憲法に求める他はないからである。

しかし、ここにおいても、国公法第一一〇条一項十七号の構成要件としての不明確性は、「違法」の内容をめぐつて再び登場することにならざるを得ないのである。

七、我が国の法規を見馴れた者が虚心に、国公法第一一〇条一項十七号、第九八条旧五項前段を通読するとき、奇異の感を懐かないものはおそらくなかろう。

ここに、此の規定の構成要件を全体的に考慮することによつて、その不明確性を露わにすることができたと信ずる。その不明確性は、処罰される行為と、処罰されない行為との限界にかかわるものであつて、構成要件として致命的なものであり、争議行為という極めて複雑な社会事象の実態の下で、到底その機能を果し得べくもないことが明らかである。

同種事案に関する下級審判決の多くは、憲法第三一条の要請する刑罰法規としての合理性を貫こうとして、一方には、争議行為の概念を限定的に捉え、他方には、「共謀、そそのかし、あおり、企て」の概念を限定的に捉えるという二つの方向においてすぐれた解釈上の努力を重ねている。

しかし、こうした解釈をとつても、他面、新たに構成要件としての不明確性の要因を加えずにはおかない。

右規定の解釈をめぐる下級審判決の多様性を生みだしたものは、すべて右規定それ自体に孕まれているのである。

占領という異常な事態の下に生れでた国公法第一一〇条一項十七号は、所詮、その生を全うすることはできないのである。国公法第一一〇条一項十七号は、憲法第三一条に違反する無効の規定であり、これを適用した原判決は到底破棄を免れないのである。

第五点原判決は憲法一八条に違反するので破棄を免れない。

一、原判決の判示

原判決は、憲法十八条違反の主張に付て、「国公法一一〇条一項十七号はこのような単純な不作為そのものを処罰し、間接的に就労を強制しようとするものではなく、違法な争議行為の遂行をあおることを企て、或いはその遂行をあおる行為の積極的、指導的行為を処罰しこれによつて争議行為の発生を禁圧するに過ぎないものであるばかりでなく、このような積極的、指導的行為を処罰することは客観的に争議行為そのものを刑罰を以て禁止するものであるとはいいがたい」と判示し弁護人の主張を排斥している。

二、憲法十八条の趣旨

憲法十八条は犯罪に因る処罰の場合を除いて、その意に反する苦役に服させられないと規定する。そしてここに云う意に反する苦役とは、本人の意志に反して強制される労役をいい、たとえその労役が通常の程度のものであつても本人の自由なる意見に反して強いられる限り苦役と云える。従つて労働者が単に労働契約に違反し、労働力を提供しなかつた場合、これに刑罰を以て臨むことは、本人の意見に反して苦役に服せしめる結果となり、許されない。この理は公務員の場合も原則的には同じで、若し公務員が単なる労務の不提供と云う争議行為を行つた場合に、これに刑罰を科するとすれば、それは憲法十八条の上からは違法とすべきである。

ただ、自己の自由意思によつて所定の手続を経れば何時でも退職することができる点を強調し、公務員の争議行為処罰が憲法十八条に違反しないとする見解がある、(昭和二八年四月八日大法廷判決)たしかに憲法十八条は、アメリカ合衆国修正憲法修正十三条第一節の規定に由来するものと云われ、右修正十三条第一節は、その制定の経過から云えば、自己の意見を以て労働関係から離脱できない、いわゆる奴隷的拘束からの解放を目的としたものであることは明白であるが、しかし我国における雇傭の実体、即ち一旦ある雇傭関係から離脱した場合、他にこれと同等の雇傭関係を自から選択、締結することは特別な場合を除き極めて困難である事実と、憲法十八条の理念とを綜合すれば、憲法十八条は単に右のような奴隷的拘束からの解放にとどまらず、自由意見による労働関係の場合にあつても労務の不提供を刑罰の対象とすることを禁止したものと解すべきであるから、右主張は支持できない。(此の点は後にものべる)

また国公法第一一〇条一項十七号の規定は争議行為そのものを処罰する趣旨ではなく、争議行為の遂行を「共謀し、そそのかし、あおり、又はこれらの行為を企てた」者を処罰するのであるから、憲法十八条の規定と直接関係がないと云うが如き原判決の考え方も存在する。しかし争議行為を含め、労働者の団体行動は、その組織体の威力を背景とする一定の統一行動である以上、団体の各機関における討議、具体的事項に関する幹部間の打合せ、上部機関からの指令、説得等、その他下部組織における争議行為に関する協議等は当然行なわれるべきであり、かかる行為のない争議行為を想定することは不可能である。このように争議行為と密接不可分の「あおり」行為等の処罰を以て、争議行為の処罰ではないと強弁するのは正しくない。従つて争議行為自体に刑罰を科することを禁じた憲法十八条の規定は、争議行為と密接不可分な「あおり」行為等の処罰の禁止にまで及ぶものと解さざるを得ないのである。

三、国際的に見た争議行為不処罰について

公務員のストライキを刑罰化すべきでないということは、すでに、国際常識ともいえるが、日本と同じように、ストライキについて憲法の保障をしている国として、イタリアとフランスがある。

国際社会法学会の会長の経歴をもち、現在イギリスのオツクスフオード大学教授オー・カーン・フロイント編集のOtto Kahn-Freund, Labor Relations and the Law A comparatione Study, 1965は、この種のいちばんあたらしい文献であるが、それによつて、両国の担当の学者の論文から、両国の憲法上の考え方を紹介しておく。

イタリアでは、第二次大戦中、ストライキは、公安の敵とされていたが、一九四八年の憲法のなかに「イタリアは、労働に基礎をおく民主的共和国である」という宣言(一条)をはじめ、詳しい労働権の規定をおき、一九五一年以降、裁判所は、憲法第四〇条の「産業権は、これを規制する法律の範囲内で行なわれる」という規定の解釈について、「ストライキを抑える従来の古い法律は生きており、この憲法の規定はたんに宣言的なものにすぎない」という考え方を放棄し、それ以前のストライキを禁止、制限する法律を無効とするという態度をとるにいたつている(Gino Giugni, The Right to Strike and to Lock-Out under Italian Law, P 212)

フランスでは、第二次大戦後、一九四六年四共和国憲法が制定され、その前文で、「罷業権は、これを規律する法律の枠内で、行使される」と宣言されるにいたり、事情は、変つてきた。すなわちそれ以前においては、多くの判決は、公務員のストイキは公務員が責任を負つている公務の継続性と両立しないということを理由に違法だという判決をしていた。しかし、右の憲法が制定された後は、フランスの最高行政裁判所は、公務員のストイキが違法だとはいえないという態度をとつてきた。(Andre Brun, The Law of Strihes and Lock-Out in France P. 192)たとえば一九五〇年七月七日のドウエーヌ判決で、公務員の争議権を認めた。それは、一九〇六年にフランスの公務員の組合が公務員が労働者であるという宣言をして以来四十四年目である。

O・カーン・フロイント教授の自国であるイギリスにおいては、公務員のストライキを刑罰によつて禁止していない。そのストライキを禁止しているのは、ガス、水道、電気だけであるが、しかしこの場合にも、適当な予告をすれば、そのストライキがたとえ生命、健康あるいは財産に深刻な脅威を与えても、(A serious threat to life, health or property)犯罪とはならないと述べ、強制労働(compulsory laborを強く否認している(Otto Kahn-Freund, Labor, Law, Law and Opinion in England in the 20th Century, 1959, pp. 255-256)。

四、「あおり」等の制限解釈により憲法十八条違反でないとする見解について

四・二安保事件判決は、憲法十八条等に違反する旨の弁護人の上告趣第一点の主張に付て、限定的解釈により、違憲を回避し得ると判示している。此の四・二判決の趣旨から云えば、まず最高裁は前にのべた退職の自由論を展開した、昭和二八年四月八日大法廷判決を変更したものと見て差支えないであろう。そこで更に検討をすすめると、なるほど、限定解釈により憲法十八条違反を回避し得るとしても、問題は二つある。

その一は、限定解釈により憲法三一条違反の問題が生じてくる。この点に付ては憲法二八条と三一条の関係に付ても同趣旨の問題が生じ、第二点、憲法二八条及び憲法三一条違反――憲法判断回避に関連して――に於て詳論しているので此処では詳論をさける。

その二は、限定解釈は、各憲法の条項の趣旨に基いてなされなければならないと云うことである。憲法二八条の趣旨よりなされた限定解釈をただちに憲法十八条の趣旨に流用することは許されないと云うことである。憲法十八条の観点からすれば、争議行為の目的が政治的な目的であろうと、経済的目的であろうと、そこに合理的な差はない筈である。

労務を提供しないことが処罰される結果になることがおしなべて憲法十八条に違反するのである。宜しく国公法一一〇条一項十七号の憲法十八条違反を宣言し、憲法に従つた新たな立法は国会にゆだねるべきである。

第六点 原判決は国公法第九八条旧五項、同法第一一〇条一項一七号の解釈、適用をあやまり、高等裁判所の判例に反しているので、破棄を免れない。

一、即ち、原判決は、判旨第二部、に於て、検察官の法令の解釈、適用に関する主張にこたえて、一審の法令の解釈、適用をあらためて、次の通り判示している。

「しかして犯罪の実行行為そのものよりも、その共謀、そそのかす行為、あおる行為等のほうが指導的であるとして可罰的の強いものと解するべきときは、実行行為よりも指導的行為の方を処罰することは少しも不合理ではなく、前記のとおり国家公務員につき争議権の行使が禁止されている現状に照らせば、その発生を防止すべきは当然であるところ、争議行為の共謀、そそのかし行為、あおり行為等の指導的行為は争議行為の原動力、支柱となり、これを誘発する危険性のあるものであるから、その反社会性、反規範性、有害性において争議の実行行為そのものよりも違法性が強く、可罰の必要があると解すべきであり、かく解しても何ら合理的根拠に欠けるものではない」

「争議の共謀、そそのかす行為、あおる行為等の指導的行為は争議行為の原動力、支柱となるものであつて、その反社会性、反規範性等において争議の実行行為そのものよりも違法性が強いと解し得るのであるから、原判決の判示するように、憲法違反となる結果を回避するため特に「あおる」行為等の概念を縮小解釈しなければならない必然性はないものというべく、又実行の前段階の行為のみを可罰的とし、違法行為の実行そのものを可罰的としない特殊な立法形式であることを理由に「あおり行為」等の意義を限定的に解すべきであるとする論拠もまた不十分であるといわざるを得ない。」

即ち、原判決は前記国公法の各法条について無限定解釈が正しいと判示し、これを基礎として右法条を適用しているのである。

二、所が、大阪高等裁判所昭和四三年三月二九日言渡、昭和三八年(う)第二二三一、二二三二号地法公違反被告事件判決(通称和教組大阪高裁判決)は地公法六一条四号(国公法一一〇条一項十七号に相当する法条)の解釈、適用について、論旨第十二に於て次の通り判示している。

「以上の憲法が勤労者に労働基本権を保障した趣旨、これを制限する場合の限度、殊にその制限違反に対しそれが単純なる労務放棄の不作為の場合には民事的な制裁を課せられるに止まり、刑罰を課せられないのが原則であること、争議行為の刑罰からの解放の歴史的経過、さらに争議行為の実態、地公法六一条四号が刑罰体系上異例の刑罰法規であること等を彼此考え合せると(右検討の詳細は右判決第十二の乃至四に於て詳論されているが引用は省略する)、地公法六一条四条に於て可罰性のあるものとされるのは、前記一般的意味において、同号に掲げる行為に該当するとみられるものをすべて含む趣旨ではなく、そのうち前説示の如く争議行為に必要不可欠か、または通常随伴するいわばその構成分子と考えられ、広い意味において、争議行為の遂行と同等の評価を受ける行為を除き、それらの行為がその態様、手段等において右の範囲を逸脱し、公共の福祉の見地からもこれを容認し難く、もはや法律上の保護の対象とするに価しないもので、その処罪もやむを得ないと認められる程度に強度の違法性を帯びるものに限ると解するのが相当である」

此の判旨によれば、地公法六一条四号(国公法一一〇条一項十七号にあたる)の「あおり」行為等の解釈、適用に於て、争議行為に必要不可欠、または通常随伴する諸行為を除き、強度の違法性を帯びるものに限る旨の所謂制限解釈をとつていることが明白で、前記原判決は此の高裁判例に反することは明かである。

三、福岡高等裁判所昭和四二年十二月十八日判決、昭和三八年(う)第一四六号、地公法違反事件(福教組事件と呼ばれている。)右同年判決、昭和三七年(う)第八九三号地公法違反被告事件(佐教組事件と呼ばれている。)の各判決は云う。

「以上の諸点を総合して考慮すると、地公法第六一条四号の処罰の対象となる煽動行為等は煽動行為がなされた争議行為が特に違法性の強い場合に限ると解すべきである。違法性の強い争議行為とは何であるかについては立法による解決が望ましいが、その限界は(1)争議行為の目的が公務員の勤務条件の改善の目的ではなく、例えばいわゆる政治目的のためになされる場合、(2)その公務員の職種からみて国民生活に対し明白かつ重大な障害をもたらす虞がある場合、(3)争議行為の手段方法が暴力を伴いまたは不当に長期にわたるなど相当でない場合に、違法性の強いものであると解するのが相当である。そして具体的には社会通念に照し良識ある判断によつて決すべきものと解する。結局争議行為の実行行為者にも、煽動行為者等にも、民事責任または行政上の責任を問うことはともかく、結局煽動行為者等にも刑事責任を問うには右のように解さない限り憲法十八条、二一条、二八条、三一条に違反するものと解するのである。」

この判旨は、結局、憲法右条項に照らして「あおり」行為等の処罰規定があるにせよ、あおり行為等の対象となつた争議行為が特に違法性が強い場合に、はじめて「あおり」行為等の処罰が許容されることになると云うのである。違法性が特に強い場合の例示に関する点は必らずしも賛成しかねるが、いづれにせよ争議行為に付いて強度の違法性を要するとする判旨は、右法条に付いて違憲の判断を避けるとすれば当然採らなければならない解釈である。原判決の判旨は此の点に付いても、右高裁判決と相反するものであり、そのあやまりは明かである。

四、福岡高裁昭和四三年四月十八日判決、昭和四一年(う)第七二八号国公法違反事件(通称全農林長崎事件)は、

「国家公務員の争議行為等をあおつたとして処罰されるのは、その争議行為等が政治目的のために行なわれるとか、暴力を伴うようなもの、または国民生活に重大な障害をもたらす具体的危険が明白であるもの、などのように不当性をもつものについて、これをあおつた場合にまづ限定しなければならないと解するのが相当である。」

としてまづ争議行為に付て限定的解釈をしている。

つぎに、あおり行為に付ては

「争議行為等を行うにあたつて団体行動を統一的に行うために通常随伴するような行為は、むしろ右争議行為等と不可分であり、それ故にこそ、その企画指導統制のもとに行われた争議行為等が上記の意味における不当性をもつものであれば、これをあおつた行為の可罰性を肯定しなければならない。しかし、争議行為等の中でも特に非難可能性の微弱なものについては、通常一般の争議行為等に随伴し、不可分的に存在すると認められるようなあおり行為をもつてこれを刺激することがあつても、このようなあおり行為を可罰的なものとはいえないことは上記説示するところから論証しうるところである。」として違法性の強度でない争議行為の「あおり」に付て限定解釈を施している。

原判決の国公法一一〇条一項十七号に関する解釈が、右判決と相反し、争議行為に付て勿論、「あおり」行為等に付ても無限定的解釈をなしていることは明かである。

五、四・二判決に付て

以上のべた高裁判決に相反する旨の主張に付ては、同じ法令の解釈に付て、正に同じ問題に付て、四・二都教組判決、四・二安保事件判決に於て既に判断が示されている所である。

即ち、四・二安保事件判決は、「すなわち、あおり行為等を処罰するには、争議行為そのものが、職員団体の本来の目的を逸脱してなされるとか、暴力その他これに類する不当な圧力を伴うとか、社会通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障を及ぼすとか等違法性の強いものであることのほか、あおり行為等が争議行為に通常随伴するものと認められるものでないことを要するものと解すべきである。というのは、職員の行なう争議行為そのものが処罰の対象とされていないのに、あおり行為等が安易に処罰の対象とされるときは、結局、争議行為参加者の多くが、処罰の対象とされることになつて、国公法の立前とする争議行為者不処罰の原則と矛盾することになるからである。」と判示している。

原判決と前記高裁各判決との国公法一一〇条一項十七号、及び九八条二項の解釈に関する高裁判例の相反は、既に最高裁の右四・二判決により、実質的には解決ずみである。原判決は国公法一一〇条一項十七号及び九八条二項に関するあやまれる法令解釈に基き、これを罰条として被告人らに有罪の判決をなしたものであるから、原判決が破棄を免れないことは明白である。

更に原判決の認定した事実を、右四・二判決の解釈に基き、前記法条に照してみよう。

第一の事実は、電報指令六号、文書指令六号の発信、又は発送を以て、争議行為の遂行をあおることを企てたものとしているのである。右の争議行為そのものの違法性の強度性を論ずるまでもなく、指令の発出は争議行為に通常随伴する行為であることは論をまたない所であるから、六四都教組判決同様無罪の判決あるべきものである。

原判示第二の事実は、被告人らが中央執行委員らと共謀の上、農林省職員らに対し、農林省正面玄関前の警職法改悪反対職場大会に直ちに参加するように反覆して申し向けて説得したのが、あおり行為であるというのであるが、同様に組合役員が組合員に対し職場大会参加方を説得する行為は争議行為に通常随伴する行為であることも又論をまたない所である。従つて原判示第二の事実に付ても前同様、無罪の判決が至当である。

以上、最高裁四・二判決の国公法一一〇条一項十七号等に関する判旨を基礎として本件に対するその適用を略述したが、争議行為そのものの違法性の強度、或いは、原判示第二事実に於けるピケツト等に付て、検察官の若干の攻撃が予想されるので、本件警職法改悪反対の行動が、四・二判決の所謂政治ストにあたるか否かの点、その他若干の問題に付て項をあらためて更に主張するものとする。

第七点四・二判決適用上の諸問題

その一 警職法斗争は「労働組合の本来の目的を逸脱し」たものではない。組合組織をまもることは組合の本来の目的である。〈省略〉

第八点四・二判決適用上の諸問題

その二 ピケツトが争議行為に通常随伴するものであることについて〈省略〉

第九点四・二判決適用上の諸問題

その三 訴因第二の事実に関する原判決の重大な事実誤認及び認拠に基づかない事実認定に付いて〈省略〉

第十点原判決は、憲法二一条、同二八条、同三一条の解釈を誤るもので破棄を免れない。

一、原判決は、いわゆる「政治スト」は憲法二八条に保障された行為としての正当性の限界を逸脱するものとして刑事制裁を免れない、と判旨する。そこで、「政治スト」とは何か、争議行為の正当性、とりわけその刑事法上の正当性とは何か、を明らかにしながら、原判決の判旨の誤つていることを明らかしてみよう。

二、なにを政治ストと呼ぶかについての代表的見解をみてみると、

いわゆる政治ストと経済ストの区別が一般に問題とされている。この限界づけが困難なことは多くの人の指摘するところであるが、法律的な判断の規準としては問題は、そこにあるのではなくして、争議行為が労使の団体交渉によつて解決可能な事項――事実上解決可能かということではなく、その措置しうる利益に関するかということ――の実現のためになされているか否かということが重要である。従つて、それが純然たる政治上の目的実現のためのものでなくても、右の要件に該当しなければ、使用者としては争議行為の結果を甘受しなくてもよいという意味で違法なストとなるわけである……。このように、いわゆる政治ストは違法と考えるが、それが違法であるというのは主として労組法上の民事上の免責を受けえないという意味である。刑事法の免責については、免責を受けえないといつてみても、単に政治ストに参加したというだけで刑罰を課しえないことは当然のことでありまた、不当なピケツテイングでも行なわれなければ、当然に業務妨害罪を構成するともいえない。

と説くのである。

この見解の骨子は、そのストライキの目的とされた事項の社会的、経済的、政治的性格とその目的をあえて掲げることの労働組合活動としての必要性、相当性――すなわち正当性の有無は、あげて捨象してしまつて、労使間の団体交渉事項であるかどうかにしぼつているのである。

註、石井照久、労働法の研究Ⅰ、二二三頁以下。

吾妻光俊、労働法概論、二四八頁以下。

三、しかし、労働組合がその組織する労働者(その家族をふくめて)たちの「地位の向上」のために活動するとき、その諸活動の分野が、単に経済的分野にかぎらず、ひろく社会的、政治的文化的な領域にまで及ぶ必要のあることは当然のことである。その必要は、人間生活の環境は、これらの各種の領域にわたつて存在しているからである。生存権というのは、このような広汎な人間生活の各種領域とかかわりを有する生活利益=生活諸条件(Conditiones of theirlives)の向上をめざす「権利」をいうのであつて、単純な意味での経済的利益をいうのではない。

したがつて、上掲論者も、ストライキがいわゆる政治ストなるゆえに当然に刑罰を課しうると論定するのではなくして、その論者の理解するところにおいての憲法二八条の範囲外に在るから、使用者がその結果を甘受しなければならぬような正当な争議行為ではない、というにとどまつているのである(ちなみに、これらの論者も、政治ストを可罰的とみることに反対し、政治ストを理由とする使用者の報復が多く不当労働行為や権利乱用となることを示唆していることは、注目してよい)。

このように、政治ストの合法、違法が論ぜられるのは、それが「労働法上のストライキ」(arbeitsrechitlicher-streik)なりや否や、したがつて民事責任を生ずるや否やというところに、その論争の焦点があることを、あえて指摘しないわけにはいかないのである。

註、三井美唄公選法事件大法廷判決

(昭四三・一二・四)。

ウエツブ、労働組合運動史(上)(改訂、荒畑寒村訳)、二一頁以下。

二ツバーダイ、新閣スト事件の意見書(法務資料三六九号)、五七頁以下。

オーカーン・コイント、イギリス労働法の基礎理論(松岡三郎訳)、九五頁以下。

四、原判決が、政治ストは憲法二八条の正当性の範囲を逸脱するから刑事制裁を免れないと説くのは、上述の論争の焦点について全くの誤解があるといわねばならない。本件ストライキが、いわゆる「労働法上のストライキ」に該当しないからということから、直ちに可罰的とするわけにはいかないのであるというのは、まず、非「労働法上のストライキ」処罰の実定法の存在を必要とし、しかも、憲法二八条が一定の範囲で違法性阻却事由となると同様に、たとえば憲法二一条もまたその立法趣旨に則して違法性阻却の理由を形成するものなのである。しかも、そのストライキの目的をみて「労働法上のストライキ」にあたらないからといつて、そのストライキ活動の過程で展開されたすべての言動が憲法二八条の次元での刑事法上の合法性を失うと、一直線に結論することができるのか、という問題があるからである。これらの問題が、「可罰的違法性」、「社会的相当行為」といわれる論点なのである。

わが国の実定法規のなかには、政治スト処罰法は、無い。すなわち、政治ストを可罰的違法類型として考える「秩序」も「社会通念」も存在していないということである。したがつて、西ドイツの政治スト論争にみられるような議会強要罪の成否を論ずる余地は、全くないのである。それゆえ、政治ストを刑事法上違法視する余地のないのに、何らかの他の実定法規をしてその代用としての機能を営なましめることは、正当な手続によらないで国民に刑罰を課するものというほかはない。

政治ストを、法現象として憲法二一条の次元で考えてみると、そのストライキがそのかかげる政治的目的の不法のゆえに、あるいはその貫徹のために「公共の困苦」を生じ「国民生活全体の利益」が損なわれるときは、その言動が実定法の構成要件を充足する限度において刑事法上の有責の非難をまぬかれないであろう。しかし、このような非難の余地のないときは、政治活動の自由の理念にもとずく社会的相当行為として、違法性を阻却するものといわねばならない。

また、憲法二八条は、労働組合が何らかの意味における政治的諸活動をすることを予定するものであるから、その一活動としてストライキ手段によるからといつて、あえて団結自治に介入し刑事制裁を加える合理的理由を欠くときに、そのストライキに随伴する諸活動に刑罰を課するということは、今日の社会経済の実状にかんがみ、さらに憲法二八条の団結自治の理念にてらして、許されないことである。

註、佐伯千仭、可罰的違法序説(権利の乱用上)、二三八頁以下。

ニーゼ、同盟罷業と刑法(法務資料三四八号)、一九二頁以下。

タ、ハ法第九条(h)合憲性判決(行政裁判資料第一〇号)、七五頁以下。

以上

弁護人小林直人の上告趣意

目次

第一一点 原判決は、「抗議スト」の社会的相当性を看過し、国家公務員法一一〇条一項一七号を適用し、被告人らを有罪に処した違法があり、破棄を免れない

第一、原判決の事実認定および法令適用

第二、争議行為は社会的相当行為であり社会的相当行為は構成要件該当性を欠くので、罪とならない

一、違法性の実質

二、社会的相当行為

三、争議行為の構成要件該当性阻却

四、禁止規定違反の争議行為と刑事免責

第三、国家公務員法違反の争議および通常随伴行為といえども構成要件該当性阻却であり、罪とならないことは大法廷判決があきらかにした

一、国家公務員法・地方公務員法による争議行為等禁止の処罰規定

二、都教組事件に対する大法廷44.4.2判決

三、安保六・四事件に対する大法廷44.4.2判決

四、結論

第四、抗議ストの社会的相当性

一、政治ストの歴史

二、政治ストに関する学説

三、西独の新聞スト判例

四、わが下級審判例

五、抗議ストの社会的相当性

第五、「表現の自由」権行使の観点からみた本件抗議ストの社会的相当性

一、抗議ストの社会的相当性の根拠の複合性

二、「表現の自由」権の行使の観点からみた本件

抗議ストの社会的相当性

三、煽動罪の憲法適合性の審査

四、国公法一一〇条一項一七号の罰則は、本件被告人らの行動に適用される限度において憲法三一条および二一条に違反し、無効である

五、裁判所に対する要請

第一一点原判決は、「抗議スト」の社会的相当性を看過し、国家公務員法一一〇条一項一七号を適用し、被告人らを有罪に処した違法があり、破棄を免れない。

第一、原判決の事実認定および法令適用

原判決は、検察官の控訴趣意(イ、事実誤認、ロ、法令の解釈適用の誤)を採用し、弁護人被告人らの一審判決擁護論をことごとく排斥した上、一審判決(無罪)を破棄し、つぎのとおり自判して、全被告人を有罪(罰金)に処した。

(罪となるべき事実)

被告人らはいずれも当時農林省職員であつて、被告人鶴園哲夫は全農林労働組合中央執行委員長、同江田虎臣、同中野優はいずれも同組合副中央執行委員長、同西川恵夫は同組合書記長同国井豪は同組合中央執行委員であつたところ、昭和三三年一〇月八日内閣が警察官職務執行法の一部を改正する法律案を衆議院に提出するや、これに反対する第四次統一行動の一環として、被告人ら五名は

第一、同組合会計長中村喜正ほか中央執行委員全員及び中央委員四十数名と共謀のうえ、同年一〇月三〇日の深夜から同年一一月二日にかけ、同組合総務部長黛次男をして、東京都内より、同組合各県(大阪府及び北海道を含む。)本部宛てに、同組合員は警職法改悪反対のため所属長の承認なくとも、一一月五日は正午出勤の行動に入れ(但し、一部の特殊職場は勤務時間内一時間以上の職場大会を実施せよ)なる趣旨の全農林名義の電報指令第六号並びに各県本部(大阪府及び北海道のほか東京都を含む。)支部、分会各委員宛てに、右と同趣旨の全農林労働組合中央闘争委員長鶴園哲夫名義の文書指令第六号を発信又は速達便をもつて発送せしめ、もつて全国の傘下組合員である国家公務員なる農林省職員に対し、争議行為の遂行をあおることを企てた。

第二、同組合会計長中村喜正及び中央執行委員十数名と共謀のうえ、同年一一月五日午前九時頃から同一一時四〇分頃までの間、東京都千代田区霞ケ関二丁目一番地農林省庁舎の各入口に人垣を築いてピケツトを張り、殊に正面玄関の扉を旗竿等をもつて縛りつけ、又裏玄関の内部に机、椅子等を積み重ねるなどとした状況のもとに、同省職員約二千五百名を入庁せしめないようにしむけたうえ、同職員らに対し、同省正面玄関前の警職法改悪反対職場大会に直ちに参加するように反覆して申し向けて説得し、勤務時間内二時間を目標として開催される右職場大会(実際の開催時間は午前一〇時頃から同一一時四〇分頃まで。正規の出勤時間は同九時二〇分。参加人員は二千名余。)に参加方を慫慂し、もつて傘下組合員である国家公務員なる農林省職員に対し、争議行為の遂行をあおつたものである。(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

被告人らの判示第一、第二の各所為は、いずれも昭和四〇年法律第六九号附則第二条第六項により同法律による改正前の国家公務員法第九八条第五項、第一一〇条第一項第一七号、刑法第六〇条、罰金等臨時措置法第二条に該当するところ、各被告人の以上の所為は、それぞれ警職法改正案に対する反対闘争のための第四次統一行動の一環という目的に出たものであるから、包括して右国家公務員法第一一〇条第一項第一七号違反罪の一罪として処断すべく、なお記録上認められる一切の犯情のほか、被告人らに有利な情状、特に被告人らは当時いずれも真面目な国家公務員であつた点等を考慮し、所定刑中、罰金刑を選択し、その所定罰金額の範囲内において被告人五名を各罰金五万円に処し、なお、右罰金不完納の場合の労役場留置処分につき刑法第一八条を、原審及び当審における訴訟費用の負担につき刑事訴訟法第一八二条、第一八一条第一項本文を各適用し、主文のとおり判決する。

すなわち、原判決の基調は、国家公務員法一一〇条一項一七号の規定の無限定無差別適用論と言えるものである。

一審判決は、「通常の争議行為における討議、説得、慫慂、指令の発出という一連の行為は、一般的な定義に従う限り、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、又はあおるといわざるを得ないであろうが、」「しかし、これらの各行為は争議行為の実態にてらし、その実行行為と同等の評価を与えるのが相当であつて、特にこれを刑罰体系上の原則に反し実行行為と区別し、別個の評価をしなければならない合理的かつ実質的な理由は存在しないと認められる。従つて、争議行為の単なる実行者にすぎないものを処罰することが許されない以上、右のような理由によりこれと通常不可分な随伴的行為に出たに止まる者を処罰することも許されないものというべきである。」旨判示し、更に「……国公法第一一〇条一項一七号のような規定が公益上真にやむを得ないとされる合理的な根拠を持つことができるのは、そこに規定されている各種行為の態様が強度の違法性を帯びることにより、その手段自体から可罰的評価を可能とする程度のものに限ると解するのが相当である。この場合国公法第九八条第五項の禁止規定に違反する争議行為の遂行を『共謀し』、『あおり』又は『これらの行為を企てた』ものは当然に強度の違法性を帯びると速断することはできない。」旨判示し、国公法第一一〇条一項一七号が可罰性を認めている類型的行為について、憲法第一八条、第三一条等の違反となる結果を回避するためには、争議行為と通常不可分な随伴的行為については可罰性を認むべきではないとし、更に右類型的行為を違法性の強度なものと通常のものとに分け、前者についてのみて罰性を認むべきであるとの見解に立つのいたのである。

この一審判決の限定的解釈論は、奇しくも、昭和四四年四月二日大法廷判決(都教組事件)の判旨とも合致している。しかるに、原判決は、

「争議の共謀、そそのかす行為、あおる行為等の指導的行為は、争議行為の原動力、支柱となるものであつて、その反社会性、反規範性等において争議の実行行為そのものよりも違法性が強いと解し得るのであるから、原判決の判示するように、憲法違反となる結果を回避するため特に「あおる」行為等の概念を縮小解釈しなければならない必然性はないものというべく、又実行の前段階の行為のみを可罰的とし、違法行為の実行そのものを可罰的としない特殊な立法形式であることを理由に(あおる)行為等の意義を限定的に解すべきであるとする論拠もまた不十分であるといわざるを得ない。」と判示し、憲法適合性を問題とせず、勇敢なる無限定無差別適用論の立場を執つたものである。

第二、争議行為は社会的相当行為であり、社会的相当行為は構成要件該当性を欠くので、罪とならない。

一、違法性の実質

違法阻却事由として法典にかかげられているのは、刑法三五条の法令による行為および正当業務行為、刑法三六条の正当防衛、刑法三七条の緊急避難の三者である。このうち正当防衛・緊急避難の両者は、いずれも緊迫した状態の下でなされた法益侵害行為の違法性を否定するものであり、当該行為が通常の状態の下においてなされた場合は違法行為は、通常の状況の下では違法であり殺人罪の構成要件に該当するが、とくにそれが急迫不正の侵害に対する反撃としてやむをえずなした行為であるため違法性を阻却され罪とならないのである。正当防衛であることがあきらかにされても、その行為は通常の事情の下でなされた場合には違法なのであるからそれが殺人罪の構成要件を充足することはいうまでもない。

しかし刑法三五条の正当業務行為について考えるとき、文理上は業務行為にかぎつて違法性の阻却を認めているけれども、それが狭きに失することが学者によつて指摘され――例えば力士の相撲は当然正当業務行為として違法性が阻却されるのに学生の競技としての相撲が違法性を阻却されないというのは根拠のないことである――そこから、正当業務行為が違法性を阻却されるのはそれが業務行為だからではなく「正当な」業務行為すなわち反社会性のない行為だからであるということが認識され、業務行為にかぎらずひろく社会通念上正当な行為と認められるものは違法性を有しないことが確認さ為た。すなわち刑法三五条は単に業務行れだけではなく、ひろく正当な行為一般について罪とならない趣旨を含むものと拡張解釈されることになつた(1)。

けだし、違法性の実質は、通説として承認されているところによれば、行為が社会的に有害なものであること、すなわち法秩序によつて保護された私人あるいは公共の生活利益――法益を侵害し、あるいはこれに危険を及ぼすところにある。しかし法益侵害を惹起し、あるいはそれに危険を及ぼす行為がすべて社会的に有害であるということはできない。けだし社会生活は、多くの分野において各種の法益の対立衝突の場となつているが、社会生活を円滑に運行させ、その向上発展をはかるためには、各法益の保護を絶対的なものとすることはできず、ある場合には高度の利益のために低度の利益に対する保護が否定されなければならないからである。かような原理は、まず過失犯におけるいわゆる「許された危険」の理論として展開され、過失犯においては結果の発生の危険性を認識・予見し、あるいはこれを予見することが可能であるにかかわらず刑事責任の否定されること、実はこの場合には行為の責任がなくなるのではなく、違法性がなくなるということすなわち危険な行為をすること自体が合法的な行為であることが認められるところとなつたが、違法性の一般理論としても、「法益較量の原理」として、国家の法秩序によつて承認された目的を達成するための相当な手段と認められる行為は違法性を欠くことが承認されるようになつた。すなわち法益に対する保護は、その法益に向けられたあらゆる侵害に対して与えられるのではなく、社会の常規を逸脱した、社会倫理的な見地から容認しえない侵害行為に対しのみ与えられるのである。すなわち正当行為が違法でないのは、それが法益侵害を内容とするけれども、その侵害が社会の常規を逸脱せず、社会倫理的見地から相当と認められるからである。かようにして違法性の実質の面から論旨を堀り下げ、違法の実体が社会の常規を逸脱した法益侵害にあることが帰結され、かつこれが刑法三五条の拡張適用される理論的基礎を提供しているのである。

(1) 牧野・日本刑法、上巻三三八―三四三頁。木村・新刑法読本(五版昭和二七年)一七七頁。団藤・刑法(改訂版昭和三〇年)七五頁

二、社会的相当行為

具体的にどのような行為が刑法三五条の適用をうける正当行為に該当するかについては、種々の見地から論じられているけれども、これを大きくわけるならば、行為がある種の社会的な類型に属し、その類型に属する行為は通常の社会生活上の過程において正当なものと認められる場合と、行為が特殊な情況の下においてのみ正当なものと認められる場合との二つの類型を認めることができるであろう。前者の例としては、医療行為、運動競技――これらはしばしば業として行われ、正当業務行為とされる――などのほか、学術的な研究、各種の危険をともなう企業、交通、鉱工業等が考えられる。また正常な商取引にともなう行為、あるいは労働争議手段としての同盟罷業等も、社会的類型としてとらえた場合には一般に正当行為に属するものと考えられる。これを行為類型としてとらえた場合に、「社会的相当行為」と呼ぶことができよう(2)。これに対し、後者の例としては、被害者の承諾、自救行為等をあげることができよう。

ところでこの後者に属するものは、正当防衛、緊急避難などと同様に、その行為が通常の情況の下で行なわた場合には違法であるけれども、例えば被害者の承諾があつたという特別の事情があるために例外的に合法化されるのである。しかしながら、前者すなわち社会的相当行為として類型化されたものについてはこれと趣を異にする。それらは一般に、日常生活において平穏な情況の下で行われ、一面で他の法益に対する侵害行為としての性格をそなえているにかかわらず、通常の事情の下では社会通念上相当な、常規を逸脱しない正当な行為と認めることのできるものである。社会的相当行為として類型化された行為例えば医療行為、スポーツ等は、それが正常な態様で行われるときは違法性を有しないのがむしろ原則であるといいうる。しかしそれらは一面同時に法益侵害行為としての定型性をそなえる余地がある。そこで刑法上、社会的相当行為が罪にならないという結論がどのような論理過程を経て導き出されるかが問題となつてくる。つまりこれらの行為が罪とならないのは、行為は一応刑法各本条の構成要件に該当するけれども正当行為と認められるから違法性を阻却されることによると考えるべきか、それとも、これらの行為は刑法上はじめから問題外におかれる――すなわち構成要件該当性がない、または社会的相当行為であることによつて、違法性だけでなく構成要件該当性そのものが否定されることによると考えるべきかが問題となつてくるのである。

これを具体的事例について考えてみよう。

まず、しばしば問題とされたのは、医療行為就中外科手術である。手術によつて腕・脚などを切断したり、あるいは身体のその他の部分に損傷を与えることが身体の完全性を損う行為であることについては疑いない。しかしながら、それが患者の疾患の治療を目的とし、且つ今日の医学上一般に承認されている妥当な方法でなされた場合、要するに通常の手術の場合には正当行為として罪とならないが、そこで罪とならない理由を考えるとき、医師の手術そのものは一応身体の完全性を損う行為として傷害罪の構成要件にあたるがしかし医師としての正当業務行為だから違法性が阻却されるということによるのか、それとも正当な医療行為であるからはじめから傷害罪の構成要件にあたらないということによるのかが問題となる。

またスポーツことに相手方に対する有形力の行使がその本来の内容をなす相闘的行為――例えば相撲、柔、剣道、ボクシング、レスリング等――についても、それらの行為が相手方に対する有形力の行使でありながら通常の場合には暴行罪にも傷害罪にもならないのは当然であるが、これらの行為が罪にならない理由が、これらの行為はそれぞれ暴行罪、あるいは傷害罪の構成要件にあたるけれども、相撲等が正当な行為であるから違法性を阻即されるということであるのか、あるいはこれらの行為は何ら反社会性を帯びないものとして、はじめから構成要件に該当しないということであるのかが問題となろう。

また労働関係における通常の争議手段としての同盟罷業を考えてみても、それは、労働者が使用者に対して経済的要求の貫徹のために、団結して労働力の供給の停止とそれにより使用者側に莫大な経済的損失が帰すべき旨の示威を行うものであるが、それ自体としては脅迫罪あるいは威力業務妨害罪としての刑事責任を問われないことは当然である。しかしこの場合にも、行為が一応脅迫罪ないしは威力業務妨害罪の構成要件に該当することを認めた上で、憲法に保障された基本的人権である団結権の行使としての正当な行為として違法性を阻即されることによるのか、あるいは類型的に当然正当な行為であるとして構成要件にも該当しないとすべきかについて問題を生ずる。

商取引においても、信義誠実の原則をいちじるしく逸脱しない程度のかけひきは、虚偽が介在しても、詐欺罪として処罰されることはないが、これについても、行為はいちおう詐欺罪の構成要件を充足するけれども違法性が阻却されるということになるのか、それともはじめから詐欺罪としての構成要件該当性を欠くのかが問題となる。

そのほかにも医学書がわいせつ文書に該当するかどうか、公正な評論が名誉毀損罪の構成要件に該当するものか等問題となりうる事例がすくなくない。また「法令による行為」のうちにも、国家による一種の「社会的相当行為」とみられるものについて同様の問題が生ずることが考えられる。例えば、適法な死刑の執行、適法な令状による被疑者の逮捕勾留等が犯罪にならないのは当然であるが、その行為が一応殺人罪あるいは逮捕監禁罪の構成要件に該当しながら法令による行為ということで違法性を阻却されるのか、それともはじめから構成要件該当性を欠くのかが問題となりうる。

これらの行為のうち、医療行為とりわけ外科手術について、それが傷害罪の構成要件にあたるかどうかは、ドイツで、刑法改正問題と関連して大いに議論された。はじめは手術が傷害にあることを肯定し、その上で「被害者の承諾」により違法性が阻却されるという見解がとられていたが、しだいに構成要件該当性のわく外におこうとする見解が強くなつてきた。例えば一九二七年の草案では、その二六三条で、「手術および治療は、誠実な医師の慣習により、且つ医学上の法則を遵守してなされた場合には本法の意味における傷害とはならない」と規定し、また学説でも、フランクは註釈書の初版以来ずつとこの立場をとり、またビインデイングも医師の適切な処置は、国民の常識からもまた法的見解からも決して健康の侵害という概念の下に属しない。それはむしろ健康を増進せしめる行為であるとし、多くの学説もこれに賛同しているが、これらは、正当な手術による身体の損傷が単に行為の違法性を阻却されるだけでなくそもそも傷害罪の構成要件にあたらないのだという見解を示したものだといえよう。ここで示された解決は、他の社会的相当行為たるスポーツ、同盟罷業、適法な逮捕勾留等にも及ぼすことができる。このように、社会的相当行為は構成要件該当性を問うまでもなくはじめから刑法上問題とならないとすることは、常識的かつ妥当な見解のように思われる。

構成要件に関する学説を、構成要件と違法性との関係という観点から大別すると、これを行為類型と解するものと、違法(ないし違法・有責)類型と解するものとに二分できる。

まず、構成要件を行為類型と解する立場を考えてみよう。

平場教授見解である。構成要件は、可罰的な行為を事実的具体的に記述した純粋な観念形象であつて、すべての価値判断、なかんずく違法性、有責性の判断とはきりはなされたものとして把握される。行為に対する価値判断をはなれいやしくも構成要件に記述された行為の定型性を具えているものはすべて構成要件に該当する。もちろん構成要件に規範的要素すなわち裁判官の解釈によつてはじめてその具体的内容があきらかにされるような構成要件要素が存在することは否定できないけれども、このような要素も、それが禁止された行為を事実的に記述するものであるかぎりにおいて構成要件に属するのである。違法判断に属するものは構成要件には属しない。

こここでは構成要件と違法とは完全に切りはなされたものとして考えられるのである。このような立場に立つと、行為の社会的相当性とは違法性の問題に他ならないのであるから、これを構成要件の段階で問題とすることは認められないと考えられよう。

けだしそれは、社会的に相当性を有するという価値的要素をはなれ純事実的観点から記述するときには、法益を侵害する行為としての構成要件的定型性をそなえているからである。

それにもかかわらず、平場教授は、社会的相当性あること疑いない行為については、構成要件該当性を否定する立場をとられるのである。このことは、学説にとつては矛盾であるが、社会的相当行為には実質的違法性を認めることができないという事実の重みがそうさせるのであろう(3)。

次に構成要件を違法類型と解する通説の立場について検討を試みよう。構成要件は定型化された違法である。それは禁止された行為を単に形式的に記述するだけでなく、より実質的な価値的な要素を含む。すなわち行為の違法性を規定する要素も構成要件に含まれる(4)。しかし構成要件はあくまで違法の定型化であるから、行為の定型的な違法性に関する要素のみが構成要件に属する。具体的・個別的に行為の違法性に影響する要素は構成要件には属しない。例えば正当防衛・緊急避難等の違法性阻却事由の存在があきらかにされても、行為の構成要件該当性そのものは否定されない。

社会的相当性は行為の違法性の問題であるから、構成要件要素となりうるが、構成要件は定型化された違法であるから、社会的相当性が構成要件に属しうるとすれば、それは、前述のごとく、違法性を欠く行為の定型化ということから理論的に可能となる。この立場では、定型化された社会的相当行為については、すべてその具体的な違法性の有無を問わず構成要件から除外される。すなわち社会的相当行為は社会的に相当性のある行為の定型化であるから、具体的な相当性を問題とするまでもなく構成要件該当性を欠くものと解せられることになる。

常識的にいつても通常の医療行為を傷害であるとし、同盟罷業を脅迫であるとし、相撲を暴行・傷害であるとすることは極めて形式的な皮相な見解であつて妥当性を欠くように思われる。けだしこれらの行為が正常な態様でなされるかぎり可罰性がないことについては今日の社会通念上明白だからである。

(1) 団藤・前掲書七五頁

(2) 平場「構成要件理論の再構成」(滝川還暦)、現代刑法学の課題(昭和三〇年)、五三七頁

(3) 平場教授は社会的相当性あること疑いない行為については構成要件該当を否定する立場をとられる。

(4) 小野・犯罪構成要件の理論、三五頁、団藤・前掲書、三六頁

三、争議行為の構成要件該当性阻却

ストライキは、形式的には威力業務妨害罪等の構成要件を充足するように見えるが、今日の社会通念は、もはや経済的要求貫徹の手段として用いられるかぎり、それは不法な勢威ではなく、経済取引に関しての合法的な社会的経済的勢力と認めるにいたつている。これをいちいち業務妨害罪の構成要件に該当するが労働組合の正当な争議権の行使として違法性を阻却されるとするのは無意味である。そのほかにも、威力あるいは脅迫等の構成要件の解釈に関して、通常の一般市民間でなされた場合には威力ないし脅迫にあたる行為であつても、労働争議という実力闘争の場において常態を逸脱しないと認められるにいたつた程度の行為については、同様に、端的にこれらが威力あるいは脅迫にあたらないとして構成要件該当性を否認することにより問題を処理することが許されよう。かように違法性の問題から出発して、結局構成要件該当性そのものが阻却されるものと解すべき事例は、刑法三五条の関係でしばしば見られるが(例えば正当な医療行為としての手術は傷害にあたらずまた相撲・ボクシング等が暴行にあたらないと考えられているがごとし)、労働犯罪についても同様のことが認められるであろう。現に判例は、労働刑事事件で無罪を言い渡した多くの場合に、違法性が阻却されるものとせず構成要件該当性を欠くものであることをその理由づけとしている。

判例において、構成要件該当性なしとの理由で争議行為に対する刑事免責が認められ、あるいは示唆された事例の代表的なものとしては、次の三例をあげることができよう。

第一は、ピケツテイングの合法性に関する三友炭鉱事件(最判昭三一年一二月一一日刑集一〇巻一二号一六〇五頁)である。この事件において、判例は、罷業中の労働組合が事実上分裂し、一部組合員が就業を開始した場合に、組合側が、就業者に対して平和的説得の限度を超えて暴行・脅迫・威力をもつて就業を中止させることは一般的には違法であるとしながら、このような就業を中止させる行為が違法と認められるかどうかは、正当な同盟罷業その他の争議行為が実施されるに際しては特に諸般の事情を考慮して慎重に判断されなければならないとし、炭車阻止の現場に参加して、炭車の運転士らに対して怒号を浴びせた労組婦人部長の行為について、

「……被告人の判示所為はいわば同組合内部の出来事であり、しかもすでに多数組合員が判示Kらの炭車運転行為を阻止しているあとからこれに参加して炭車の前方線路上に赴き判示のように怒号し炭車の運転を妨害したというのに止まるのであるから、かかる情況の下に行われた被告人の判示所為は、いまだ違法に刑法二三四条にいう威力を用いて人の業務を妨害したものというに足りず、それゆえ被告人の所為について罪責なしとして無罪の言渡をした原判決は、結局において正当である。」

としている。

第二は、組合幹部が、罷業中、罷業反対の分派活動を行なつていた組合幹部を、組合側の闘争拠点として用いられていた旅館に強いて連行したとして不法逮捕が問題となつた長崎相互銀行事件(最判昭和三九年三月一〇日)であつて、当該行為はいまだ不法に人を逮捕したものとはいえないとした第二審の判決が維持されたものであり、最高裁判所(第三小法廷)自体としてはとくに積極的な判断を加えたものではないが、最高裁によつて是認された第二審福岡高裁判決は、

「……これを要するに、……被告人等の本件所為が争議中の組合内部における出来事であり、しかも被害者Ⅰは組合の重責ある地位にありながら分派活動に参加し裏切的行為をしている疑があるとして派遣中央闘争委員会において事情聴取と説得のため召喚決定がなされ、その決定伝達に関連して惹起されたものであり、而も被告人等に於て予ゆⅠに対し逮捕行為その他の強制力を行使すべき意図は全くなかつたのであつて、……而して被告人等の所為は、Ⅰの左右からスクラムを組んだようにしてその両腕を組み、又前から肩を一時押えて数分間その束縛を続けて自由を拘束したに止まり、その間右束縛から逃れようとしてもがき騒ぐ同人に対しこれを制止すると共に静かに話合うのだと申向けて結局同人の承諾を得、旅館牡丹荘に同行したのであつて、他に何等の暴行ないし脅迫も行われていないのであるから、かかる情況の下に行われた被告人等の本件所為は、いまだ以つて違法に人を逮捕したものというに足りず、これと結局同趣旨に出でて被告人等に対して無罪の言渡をした原判決は相当である。」

とした。ちなみに、第一審は、被告人等の行為は刑法二二〇条一項所定の不法逮捕罪の構成要件に該当するとしながら、諸般の事情を考慮すれば本件所為は社会通念上公序良俗に反したものというをえず、実質的違法性を欠くものとの理由で無罪としたものである。

第三は、納金ストに関する二つの判例である。(最判昭和三三年九月一九日刑集一二巻一三号三一二七頁―熊野分会事件、同日判決刑集一二巻一三号三〇四七頁―湊川分会事件)。

このうち、湊川分会事件のほうは、第一審から、問題は不法領得の意思の有無という横領罪の成立要件をゆぐる純刑法的議論にしぼられていたが、熊野分会事件については、最高裁判所は、一方において、納金ストにおける熊野分会が実施した程度の金銭抑留行為は争議行為の正当性の限界を逸脱するものであつて違法であるとしながら、金銭の抑留をもつて直ちに不法領得の意思の実現ありと断じたのには理由不備の違法があるとしたものである。すなわち、

「……被告人は前争議行為における職場放棄中の賃金一人あたり金二十六円余、八十五名分二千余円を給料中から控除することに反対するため使用者所有の金銭利用を阻止しようとし、その意に反し九百余万円を抑留して、これを引渡さないのみならず、被告人名義の預金としたのであつて、右主張貫徹手段として採用した金銭抑留については使用者に与える不利益の程度、すなわち抑留限度等に関し当初から何ら顧慮した形跡なく全く無制限であつて、しかも抑留金額、抑留日数の相当部分は使用者の要求屈服後において漫然継続したような事実関係にあり、他に特別の事情の認め得ない限り使用者の負うべき危険及びその失うことあるべき利益と労働者の主張貫徹により得べき利益との間には社会通念上権衡を失すること甚だしいものありというべく、かくのごときは法の期特する労使対等交渉担保のため使用者の犠牲において労働者を保護すべき範囲内とはとうてい認め難いから、右行為は全体として労働組合法一条二項に規定する正当な行為の限界を逸脱するものというべく、同条項による保護を受け得ないこと当然である。……」としながら、

「……しかし労働争議の手段として集金した電気料金につき一時自己の下に保管し、しかもその保管の方法が会社のため安全且つ確実なものであり、そして毫も自らこれを利用又は処分する意思はなく、争議解決まで、専ら会社のための一時保管の意味で、単に形式上自己名義の預金となしたに過ぎないと認められる場合においては、これを以て直ちに横領罪の成立を認むべきものではない……」

として、抑留行為が本件のごとき特殊な事実関係の下で直ちに不法領得の意思の発現と認められるとした判断を誤りとしたものである。

これらの判例においては、いずれも、何らかの意味で行為が実質的に違法性を有することを肯定しつつ、それが構成要件の予想する程度の可罰的違法性の程度に達しないことを基底として構成要件該当性なしとした点において共通性をもつが、実は、かような問題処理の方式は、いわゆる一厘事件(大判明治四三年一〇月一一日刑録一六輯一六二〇頁)以来の裁判所の伝統的な思惟方式に従つたものと考えられるのである。(なお、旅館主が客の需要に応ずるためその都度中女に命じて指定小売人からたばこを購入せしめるのに代えてあらかじめ買いおく行為の罪責に関して、最判昭和三二年三月二八日刑集一一巻三号一二七五頁参照)。

四、禁止規定違反の争議行為と刑事免責

次に、政策上の必要から争議行為の制限・禁止を規定した特別法の存する場合について考えよう。例えば、国又は地方公共団体の公務員、公共企業体および地方公営企業の職員については、争議行為の実行を企て、または、共謀、煽動する行為が禁止されており(国家公務員法九八条五項・一一〇条十七号、地方公務員法三七条一項・六一条四号、公共企業体労働関係法一七条一項、地方公営企業労働関係法一一条一項)、民間企業では、電気産業および石炭鉱業についてそれぞれ、電気の正常な供給を停止しまたは電気の供給に直接に障碍を生ぜしめる行為(停電スト・電源スト)、炭鉱の保安放棄が禁止され(電気事業及び石炭鉱業における争議行為の方法の規制に関する法律二条・三条)そのほか、船員について、船舶が外国の港にあるとき、または争議行為により人命もしくは船舶に危険が及ぶときの争議行為の禁止(船員法三〇条)、また一般的に、工場事業場における安全保持の施設の正常な維持又は運行を停廃し、又はこれを妨げる行為の禁止(労働関係調整法三六条)、公益事業における抜打争議行為、緊急調整中の争議行為の禁止(同法三七条・三八条)等の規定を数えあげることができる。

これら諸規定に違反してなされた争議行為は、当該規定の法域における違法であることはもちろんであるが、問題は、これらの法律違反の争議行為については刑法三五条の適用が全く排除され、それが刑法等の犯罪構成要件を充足する場合には刑法上も犯罪を構成することになるかということである。

この問題を考えるについては、一方、違法性の概念の相対性、多面性ということに着目しなければならない。宮本博士が指摘されるように(1)、一個の行為に対しても、価値観察の基準を異にするときは、その数だけ重畳的に法的評価が可能となるのである。例えば非医師が医療行為として外科手術を行つた場合に、当該行為は無免許という点では違法であるが、医療行為としての性質を失わないかぎり合法的行為であつて、傷害罪に問われることはない。労働犯罪の場合にも同様の原理が妥当する。われわれはまず当該の禁止規定のもつ違法性の実質的内容と、刑法ないし特別刑法の当該規定のもつ違法性の内容とが同一の性質のものであるかどうか――要するに両者の保護法益いかん――を考えなければならない。両者がくいちがつている場合には、特別の禁止規定によつて違法とされる行為であつても、刑法の当該規定に対する関係では合法であつて、刑法上の犯罪を構成しないものと考えられる。

例えば国鉄職員が賃金増額を要求してストライキを実行した場合、公労法一七条に違反して違法であるが、当該行為が刑法により業務妨害罪として処罰されることになるかというと別問題である。公労法の趣旨は、一般利用者公衆の保護にあり、また刑法業務妨害罪の規定は、企業主体の企業活動の保護を主眼としているから、公労法違反の効果は公労法のわく内に止まり、刑法によつて業務妨害罪として処罰されるものと解すべきではない。学説はもちろん(2)、判例も例えば最高裁昭和三〇年一〇月二六日判決(刑集九巻一一号二三一三頁)は、政令二〇一号違反の国鉄職員の職場離脱行為について、

「……もし本件昭和二三年政令二〇一号が制定施行されなかつたとすれば、右鉄道職員が、右判示の如く何ら暴力等を用うることなく、単に同盟罷業として、多数共同してその職場を去りこれを放棄し、その結果国有鉄道の業務を妨害するに至つたとしても、それは正当な行為として何ら罪となることはないのである。しかるに昭和二三年七月三一日、本件昭和二三年政令二〇一号が制定公布され即日施行され、公務員が『国又は地方公共団体の業務の運営能率を阻害する争議行為』をすることを禁止し処罰することとしたため、本来ならば処罰されることのない前記の如き共同職場放棄が右政令の禁止する『国又は地方公共団体の業務の運営能率を阻害する争議行為』にあたるものとして処罰されるに至つたのである。そして右の如き争議行為をすれば、その国又は公共団体の業務が妨害され妨害される虞のあることは言を俟たないところであるから、公務員が右の如き争議行為をなし、因つて国又は地方公共団体の業務を現に妨害した場合であつても、その公務員に対しは、本件政令二〇一号三条、二条一項だけを適用し処断すれば足るのであつて、すなわち右政令第二〇一号は刑法二三四条に対する特別法と解すべく、更に刑法二三四条を適用処断すべきものではない……。」

としており、その趣旨は必ずしもあきらかではないが、判例が一般法、特別法の観念を用いているその実体は、違法性の質的な相違に着目しているものと考えることができよう。

他方、禁止規定の保護法益と刑法各罪の保護法益との異にも着目しなければならない。禁止規定が理論上当然刑法で処罰されるに値いする行為について、その違法性を確認するに止まる場合には問題はないが、すべての場合にそう解しうるわけではない。本来刑法三五条の適用を認むべき場合に、さらに別個の見地からこれを禁止する事例が存するからである。

まず、労働関係調整法三六条の安全保持の施設に関する争議行為の規定は、本来当然に刑法上も違法である行為についてその違法性を確認したもの、とされているから(3)、この規定に違反した行為については、、それが主として人命の安全を保護する趣旨のものであることに鑑み、当該行為により具体的に人命の安全が損われるような事態を招いたときにそれに相応する刑法の規定によつて処罰されるものと解せられる、また例えば炭鉱の保安放棄ストライキは、スト規制法により禁止されているが、スト規制法は政策立法であり、この場合の保護目的は、炭鉱の荒廃の防止にあるから、刑法における違法性は、直接炭鉱の爆発、浸害等の事態の発生をみてはじめて問題とされるべきものとなる。なおいずれの場合も、このために、当該行為が直ちに業務妨害罪として処罰されることにならぬことは当然である。

つづに問題を提供するのは、郵政事業職員が公労法一七条に違反してストライキを行い、また電気事業の従業員がスト規制法第二条に違反していわゆる停電スト、電源ストを実行するとき、当該行為は郵便法七九条、公益事業令八五条(現行電気事業法一一五条)に該当するが、公労法、スト規則法違反の故をもつて、直ちに前記法条で罰せられるかという点である。これらの罰条では、刑法の業務妨害罪とは異なり、企業主体の利益よりはむしろ利用者一般公衆の利益の保護に重点がおかれているものと考えられる。そしてこれらの事業についてストライキが制限あるいは禁止されているのは主として公共の福祉の保護ということにあるから、形式的には、ストライキにより郵便物を遅延させ、あるいは、電気の供給を停止する行為に対しては、当然それぞれの罰則が適用されてくるものと解せないことはない。

しかし立法の経緯からみると、郵便法制定当時は未だ国家公務員も争議権を認められていたから、郵便物の遅延をもたらすストライキについては当然社会的相当行為として構成要件該当性が阻却されるものと考えられていたわけであり、またスト規制法施行以前においては、下級審の判例は停電スト、電源ストについても当然には電気供給停止の罪を構成するものではなく、その規模、具体的実施方法によつては正当な争議行為と認められるもの、としていたのであるから(4)、簡単にそう解することは早計である。そこで公労法、あるいはスト規制法が、公共の利益に対する関係で、争議権の正当性に関する在来の「社会通念」の根本的な変化――例えば、郵便の遅延をもたらすようなスラトイキは郵便法の刑事罰を科するに値いするとし、また停電スト、電源ストはいかなる規模・方法のものであつてもすべて公益事業令による刑事罰を科するに値すると評価するような――を背景として成立したものであるか、それとも政策的必要から、社会通念上基本的には正当であるストライキをとくに禁止するものかを考えねばならない。公労法の場合には、それが政令二〇一号、国家公務員法をうけつぎつつ、その違反に直接刑事罰を科しない方針に変つてきていることから考えて、罰則を郵便法に譲る趣旨とは解せないし、またスト規制法についても、昭和二七年の電産争議以降、停電スト、電源ストの正当性に関する社会通念にある程度の変化がもたらされたことは否定できないけれども、これを直接公益事業令八五条(電気事業法一一五条)違反として処罰すべしとするところまで達しているかどうかは疑わしい。かような意味で、これらの規定は、憲法が保障して正当になしうる争議行為をとくに政策上制限・禁止したもので、その違反の実質的違法性は刑法の意味における違法性と性格を異にするとみるべく、その違反の効果は、当然刑事免責を失わず当該法規の限度において民事的制裁を受けることがある段階に止まるものと解すべきであろう。国公法違反の争議行為の効果については項をあらためて述べる。

(1) 宮本・刑法大綱五五、九〇頁、牧野・刑法研究八巻七五頁以下。

(2) 石井・労働法一三九頁、吾妻・概論二三一二―三二頁。

(3) 註釈労働関係調整法一二三頁以下。

(4) 東京高判昭和三一年七月一九日(高刑集九巻七号七七六頁)、同昭和二七年七月三日(資料一〇二号二九五頁)、福岡高判昭和二六年七月三〇日(資料一〇二号四六五頁)。

第三、国家公務員法違反の争議行為および通常随伴行為といえども構成要件該当性阻却であり、罪とならないことは、大法廷判決があきらかにした。

一、国家公務員法・地方公務員法による争議行為等禁止の処罰規定

国家公務員法および地方公務員法は、職員が「同盟罷業、怠業その他の争議行為」又は「政府」「地方公共団体の機関」の「活動能率を低下させる怠業的行為」をすることを禁止している(国公法九八条五項前段、地公法三七条一項前段)。この国家公務員・地方公務員に対する争議行為・怠業的行為の禁止規定が中軸となり、罰則が設けられている(国公法一一〇条一項一七号、地公法六一条四号)。この罰則規定の様式は、「何人たるを問わず」、争議行為・怠業的行為を「共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた」ばあいには、刑罰に処するというものである。

公務員の争議行為自体は、構成要件から外されており、罰則規定の対象とならないのに、いわゆるあおり行為には、公務員たると否とを問わず、罰則が適用される、きわめて包括的罰則規定であり、しかも、実行行為が不可罰行為であるのにその準備段階の行為だけを捕えて処罰の対象とする点において、憲法三一条、二八条、一八条および三一条等の適否が問題とならざるを得ないのである。

右の憲法適合性の審査にもとずいて、一審判決は、いわゆる合憲的限定解釈論に立ち、被告人らを無罪とし、原判決は、検察官の無限定無差別適用論を採用し、一審判決を破棄して被告人らを有罪としたのである。

二、都教組事件に対する大法廷44.4.2判決

しかし、原判決がなされた後、すでに、東京都教組事件(地方公務員法違反)について、昭和四四年四月二日、大法廷判決がなされ、奇しくも、一審判決の合憲的限定解釈論の立場が支持され、原判決の無限定無差別適用論の立場は否定された。

大法廷44.4.2判決・昭和四一年(あ)第四〇一号地方公務員法違反事件・刑集未登載

「これらの規定が、文字どおりに、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為(以下、あおり行為という。)をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、それは、前叙の公務員の労働基本権を保障した憲法の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最小限度にとどめなければならないとの要請を無視し、その限度をこえて刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑を免れないであろう。

しかし、法律の規定は、可能なかぎり、憲法の精神にそくし、これと調和しうるよう、合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、これらの規定の表現にのみ拘泥して、直ちに違憲と断定する見解は採ることができない。

すなわち、地公法は地方公務員の争議行為を一般的に禁止し、かつ、あおり行為等を一律的に処罰すべきものと定めているのであるが、これらの規定についても、その元来のねらいを洞察し労働基本権を尊重し保障している憲法の趣旨と調和しうるように解釈するときは、これらの規定の表現にかかわらず、禁止されるべき争議行為の種類や態様についても、さらにまた、処罰の対象とされるべきあおり行為等の態様や範囲についても、おのずから合理的な限界の存することが承認されるはずである。

つぎに、地方公務員の争議行為についてみるに、地公法三七条一項は、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止しているから、これに違反していた争議行為は、右条項の法文にそくして解釈するかぎり、違法といわざるをえないであろう。しかし、右条項の元来の趣旨は、地方公務員の職務の公共性にかんがみ、地方公務員の争議行為が公共性の強い公務の停廃をきたし、ひいては国民生活全体の利益を害し、国民生活にも重大な支障をもたらすおそれがあるので、これを避けるためのやむをえない措置として、地方公務員の争議行為を禁止したものにほかならない。ところが、地方公務員の職務は、一般的にいえば、多かれ少なかれ、公共性を有するとはいえ、さきに説示したとおり、公共性の程度は強弱さまざまで、その争議行為が常に直ちに公務の停廃をきたし、ひいて国民生活全体の利益を害するとはいえないのみならず、ひとしく争議行為といつても、種々の態様のものがあり、きわめて短時間の同盟罷業または怠業のような単純な不作為のごときは、直ちに国民全体の利益を害し、国民生活に重大な支障をもたらすおそれがあるとは必ずしもいえない。地方公務員の具体的な行為が禁止の対象たる争議行為に該当するかどうかは、争議行為を禁止することによつて保護しようとする法益と、労働基本権を尊重し保障することによつて実現しようとする法益との比較較量により、両者の要請を適切に調整する見地から判断することが必要である。そして、その結果は、地方公務員の行為が地公法三七条一項に禁止する争議行為に該当し、しかも、その違法性の強い場合も勿論あるであろうが、争議行為の態様からいつて、違法性の比較的弱い場合もあり、また、実質的には右条項にいう争議行為に該当しないと判断すべき場合もあるであろう。

地公法でいう争議行為のあおり行為等がすべて一律に処罰の対象とされうべきものであるかどうかについては、慎重な考慮を要する。

問題は、結局、公務員についても、その労働基本権を尊重し保障しようとする憲法上の要請と、公務員については、その職務の公共性にかんがみ、争議行為を禁止すべきものとする要請との二つの相矛盾する要請を、現行法の解釈のうえで、どのように調整すべきかの点にあり、労働基本権尊重の憲法の精神からいつて、争議行為禁止違反に対する制裁、とくに刑事罰をもつてする制裁は、極力限定されるべきであつて、この趣旨は、法律の解釈適用にあたつても、十分尊重されなければならない。そして、地公法自体は、地方公務員の争議行為そのものは禁止しながら、右禁止に違反して争議行為をした者を処罰の対象とすることなく、争議行為のあおり行為等にかぎつて、これを処罰すべきものとしているのであるが、これらの規定の中にも、すべて前叙の調整的な考え方が現われているということができる。しかし、さらに進んで考えると、争議行為そのものに種々の態様があり、その違法性が認められる場合にも、その強弱に程度の差があるように、あおり行為等にもさまざまのものがありうる。それにもかかわらず、これらのニユアンスを一切否定して一律にあおり行為等を刑事罰をもつてのぞむ違法性があるものと断定することは許されないというべきである。ことに、争議行為そのものを処罰の対象とすることなく、あおり行為等にかぎつて処罰すべきものとしている地公法六一条四号の趣旨からいつても、争議行為に通常随伴して行なわれる行為のごときは、処罰の対象とされるべきものではない。それは、争議行為禁止に違反する意味において違法な行為であるということができるとしても、争議行為の一環としての行為にほかならず、これらのあおり行為等をすべて安易に処罰すべきものとすれば、争議行為者不処罰の建前をとる前示地公法の原則に矛盾することにならざるをえないからである。」

右大法廷判決により、地公法六一条四号の罰則規定は、これを無限定無差別に適用すれば違憲無効のものとなるが、これを合憲的限定解釈することにより適法のものとなることが確定されたのである。すなわち、公務員が組合役員として争議行為について「協議」し「機関決定」し「指令」し「ピケツトを張る」等の通常随伴行為を含めて争議行為実行行為は構成要件該当性を欠き、不可罰行為である旨判示されたのである。

三、安保六・四事件に対する大法廷44.4.2判決

なお、前記大法廷判決と時を同じくして、仙台高裁構内で司法職員等によつて昭和三五年六月四日行われた安保斗争のためにする職場集会事件(国家公務員法違反)に対する大法廷判決がなされた。

この判決は、有罪であつたが、その理由は、(イ)司法職員であること、(ロ)通常随伴行為と認められないこと、の二点であつた。

大法廷44.4.2判決・昭和四一年(あ)第一一二九号国家公務員法違反等被告事件・刑集未登載

「これらの規定が、文字どおりに、すべての国家公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為(以下、あおり行為等という。)をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、公務員の労働基本権保障の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最少限度にとどめなければならないとの要請を無視して刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑いを免れない。しかし、法律の規定は、可能なかぎり、憲法の精神に即し、これと調和しうるよう合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、これらの規定の表現にのみ拘泥して、直ちにこれを違憲と断定する見解は採ることができない。

そこが、被告人らの右行為が、裁判所職員の行なう争議行為に通常随伴するものと認められるかどうかについて考えてみるに、被告人らのうち、裁判所職員でなく、かつまた、裁判所職員の団体に関係もない第三者である被告人坂根、千葉、手塚の行なつた行為は、裁判所職員の行なう争議行為に通常随伴するものと認めることができないことは明らかである。また、被告人阿部は裁判所職員であり、その団体である全司法労働仙台支部執行委員長の職にあつたものであるから、そのあおり行為等がその態様において異常なものでないかぎり、争議行為に通常随伴するものと認めることができるが、本件の場合、被告人阿部は、第三者である前示被告人らと共謀して前示(ロ)の行為を行なつたものであるというのであるから、右事実関係のもとにおいては、被告人阿部の行為も争議行為に通常随伴する行為と認めることはできないものといわなければならない。

してみれば、原審が被告人らの前示行為につき国公法一一〇条一項一七号を適用したことは、その理由において当裁判所の見解と異なるところがあるが、結局、正当であるに帰し、以上と異なる見解のもとに原判決に法令違反の違法があるとする所論は、採用することはできない。」

前記のとおり、この大法廷判決も、いわゆる合憲的限定解釈論の立場を支持されたものであり、被告人らがもし司法部職員でなく、又、行為が争議行為の通常随伴行為にとどまつたものであつたなら、構成要件該当性を欠く行為として、無罪とされたであろうことはあきらかであると言える。

つぎの二人の裁判官の少数意見は、右の趣旨を一層あきらかにしたものとして割愛するに忍びないものがある。

裁判官入江俊郎の意見

(前略) 労働争議本来の目的と全く無関係に、例えば専ら政治的目的達成のための政治運動が、争議行為の形態を採つてなされたような場合には、そのような争議行為は、憲法二八条の保障とは無関係なものというべきであろう。しかし、私はそのような争議行為も実定法たる国公法上の争議行為という中には包含されていると思う。そしてたとえそのような場合であつても、そのあおり行為等をした者が勤労者自身であれば、現行国公法が、その者のする右のような争議行為自体に刑罰を科さない立前であるとすれば、それとの均衡上、右あおり行為等のみに刑罰をもつて臨むことは、それが右争議行為に通常随伴するものと認められるものである限り、憲法三一条の要請から、または現行国公法の妥当な解釈の上から、許されないと解するのが相当ではないかと考える。

裁判官色川幸太郎の反対意見

(前略) 八、本件職場大会は、新安保条約に反対する純然たる政治活動である。「ストライキ」という言葉は日常的な慣用語であるから、これを政治ストとよぶことは自由であるが、それは学生の安保反対のための一斉休学をストライキとよぶことと多く異なるところはないのであつて、国公法九八条にいう「同盟罷業」は、これと厳密に区別されなければならない。けだし、同条の「同盟罷業」は、同条にいう「争議行為」の下位概念であり、上述した「争議行為」の定義はすべて「同盟罷業」に当てはめられなければならないからである。

ところで、前示全逓中郵事件判決は、公共企業体等労働関係法一七条一項に違反した争議行為であつても、それが労組法一条一項の目的を達成するためのものであり、かつ単なる罷業または怠業等の不作為が存在するにとどまり、暴力の行使その他の不当性を伴わない場合には、刑事制裁の対象とはならないが、「もし争議行為が労組法一条一項の目的のためではなくして政治的目的のために行われた場合」等においては、「争議行為としての限界性をこえるもので、刑事制裁を免れない」と説示している。人あるいはこれを目して、当裁判所は一般的に公務員等によるいわゆる政治ストの可罰性を認めたものとするかも知れない。しかし、全逓中郵事件は、公共企業体労働関係法(これは、いうまでもなく、争議行為に対する刑罰規定をもたない。)の適用下にある郵政職員について、郵便法の罰則規定である同法七九条一項の適用があるか否かを論じたものに過ぎず、さらに進んで、一般に、公共企業体等の職員によるいわゆる政治ストが刑罰の対象となるかどうかは右の事件では全く問題外であつたのである。のみならず、いわゆる政治ストが国公法九八条にいう「争議行為」でないことは、既に論じたとおりであるから、国家公務員による政治的目的のための本件行為が可罰的であるかどうかは、国公法一一〇条一項一七号違反として起訴された本件においては、全く問題にならないのである。(この点については、憲法一五条二項に定める公務員の中立性と憲法二一条による市民としての表現の自由との関連において、国公法一〇二条、一一〇条一項一九号及び人事院規則一四―七の合憲性もしくはその適用の範囲が判断されなければならないのであるが、それは別途検討さるべきものであつて、今これを論ずる限りではない。)

四、結論

原判決の立場である国家公務員法一一〇条一項一七号の罰則規定の無限定無差別適用論は、大法廷44.4.2判決があきらかにしたとおり、違憲(憲法三一条、二八条、一八条、二一条)であるので、原判決は、すでに、この点において破棄を免れない。

第四、抗議ストの社会的相当性

一、政治的ストの歴史

政治的ストの第一陣は昭和二一年の一〇月闘争であるが、これは、同年六月一三日発せられた「社会秩序保持に関する声明」が反動政策の現われなりとして、同日の読売新聞の争議を契機とし、政治的ゼネストを展開せんとの動きが現われ、八月五日の全日本鋼鉄労組によつて実施された労働関係調整法反対のための二四時間ストを経て、八月二九日には「ゼネスト共同闘争委員会」が結成され、九月一〇日から海員組合がゼネストに入り、同一三日産別会議では全国加盟各組合に対し、国鉄(但し、結局ストに入らなかつた)海員のストに応じて即時共同闘争に入り、全国的に一大階級戦の雰囲気に持つてゆくこと等を指令し、九月一八日〜一九日には産別会議の臨時執行委員会は、(1)くび切り絶対反対、完全雇用の実現、(2)生産復興は人民の手で、(3)産業別統一法団体協約の確立、(4)労調法の撤回、罷業権の確立、(5)吉田首切内閣即時打倒の基本的スローガンを定め、あわせて、(1)最低賃金制の確立、五百円の枠を外せ、(2)最高拘束八時間、(3)労働権の確立、(4)勤労所得税撤廃、(5)失業・社会保険の確立、(6)暴力団、官憲のスト破り反対などの付帯スローガンを決定し、かくして昭和二一年一〇月三一日現在の状況は、合計スト件数二五七件、参加人員三一九、二九一名、生産管理件数一四件、同参加人員七、九七五名であつた。そして、この一〇月闘争のころから「政治スト」に対する論議は漸く盛んとなつてきた。

昭和二一年一〇月一二日総同盟在京中央委員会は「政治的ゼネストに対する声明書」を発表し、「資本家階級の擁護に重きをおき、労働大衆の生活は窮乏においやられているのを放置している吉田内閣の退陣と、民主政府の成立を要望せざるを得ない……」とし、しかしながら暴力的革命手段は客観的、主観的条件を甚しく誤解したもので、却つて国民より遊離して反動勢力の抬頭を促すから戒心すべきであると述べ、同年一〇月一一日吉田茂首相は衆議院本会議で「労組が一部少数者の指導により、組合運動と政治運動を混同し、争議を政治目的のため利用するが如きことは決して組合運動の健全な発達を期する所以ではない。政府はこれを遺憾とするものである。労組は労組法に規定してある通り、労働条件の維持改善その他経済的地位の向上をはかることを主たる目的とするものである。しかして政治運動を目的とするものは労働組合とはいい難いのである。(現下の産業・経済事情を無視し)……政治ゼネストを宣言するが如きは明らかに組合運動の範囲をこえるものである。経済的社会的混乱を惹起し、一部のものがこれに乗じこれを利用せんとする如きものと断定せざるを得ない。かくの如きことは基本権の明白なる濫用であつて、健全なる民主政治は議会を通じて行なわるべきである……」(資料労働運動史昭和二〇年〜二一年二八八頁)と述べ、社会党も客観的、主観的条件を顧みないで祖国を強引に政治的ゼネストの渦中に投ぜんとする産別会議の政策に断乎反対すると主張し、共産党は政治的ゼネストの必要性を肯定しながらも今はその時期でないとの見解に同調し、各新聞もそれぞれ意見を述べたが、昭和二〇年一〇月一三日読売新聞社説は、労組の任務と政党の任務を区別し、一〇闘争で産別会議自ら労組でないことを明示したもので政治活動を主とする労組は自殺行為をなすものであると反対し、同月一二日朝日新聞社説は、かかる重要な争議は組合内部の民主的な討議によつて決すべしとし、産別が要求貫徹のためにゼネスト以外になしとの態度をとることについて、政府と政党は責任を感ずべきで、真剣に争議の解決に当れ、と論じてやや労組に同情的な見方を示した。

ところで、一〇月闘争に続いて、諸官庁の組合を中心とした各労組は賃金値上げ要求を掲げて立ち上り、当初は経済的な動きであつたが、インフレや食糧不足に対する政府の施策に対する反対という政治ストの形を採るに至り、結局その要求には、労調法撤廃、勤労所得税撤廃、綜合所得税額引上げ、暴圧的勅令五九一号撤廃、官憲弾圧反対、首相年頭の(不逞の輩)の取消及び陳謝等合計一三項目が含まれていたが、当時は政治ストとしてよりも、ゼネストとしての性格が問題とされた。かくして、昭和二二年一月三一日最後の交渉は決裂し、二六〇万人によるいわゆる二・一ゼネストは目前に迫り、緊迫した空気が漲つたが、マツカーサー元帥=(マ元帥)の、「敗戦によつて都市は荒廃し、産業は停頓し、国民の大部分が飢餓戦上を彷復している現状でこのゼネストを行なうのは、日本を災禍の中に投ずるものとして禁止せざるを得ない」との趣旨の声明により、ゼネストは不発に終つた。

昭和二三年に入つて、生産復興、ヤミ撲滅、争議の平和的解決を図るため、その根本理念たる組合健全化を眼目とし、クローズド・シヨツプの禁止、組合専従者給与の組合負担、争議の禁止制限のための公益事業指定の簡易化等を指向する米窪試案に対し、産別の主導する共闘委員会は人民大会、署名運動をはじめ、全官公の三月一日の一斉賜暇戦術を決定するなど企業整備、最低賃金獲得等の目的と結びついて、労働法規改悪反対闘争を押し進め、全官公の「三月攻勢」(参加人員二三〇万)においてその頂点に達した。また七月二二日公務員法の早急な改定を命令したマ元帥の書簡(これは、直接には公務員のストについて述べたものであるが、一般の労組の政治活動についての考え方を示すものとしても注目される。「組合の判断を立法並びに行政面に進出せしめ、労働組合が国民全般の正しく選ばれた代表者の機能を侵害することは、民主主義理念に違反するものである」との箇所がそれである)が発表され、その趣旨にそつて政令第二〇一号が公布された。これに対し、官業労組は罷業権を奪われまいとして活動を開始し、特に全逓は七月二四日闘争指令を出し、三〇日非常事態を宣言し、二三日には産別系労組も公務員法の改定は全労働者の問題であり、改定後は民間労組への圧迫は必至であるとして、八月五日から各地で二四時間ストを始めた。その後反対運動は活発に展開したが、一一月三〇日改正国家公務員法は成立し、同日全金属は一時間の抗議ストを行なつた。

昭和二四年に入り、一月二九日中立系及び総同盟系の一部を含めた四十数組合参加のもとに全国労働組合法規対策協議会(全法協)が組織され、入手された第三次労働省試案を研究した結果、これに反対することとなり、四月中旬から第五国会への上程期日たる四月三〇日にかけて、全日化、印刷出版、私鉄等三〇万人に及ぶ抗議ストが波状的に打たれたが、五月二二日労組法改正法、労調法改正法が成立した。また五月三一日公安条例に反対するため東交の二四時間スト、六月九日行政整理反対のための国電ストが行なわれ、一〇日には「人民電車」が発車した。

昭和二五年六月二五日朝鮮動乱が勃発し、新聞放送会社がGHQの示唆により、共産党員及びその同調者の追放に乗り出したのを皮切りに、電気産業全般にエーミス労働課長から共産分子追放の示唆を受けるに至り、レツド・パージは全産業に波及し、民間約一万一千、官公庁約千二百名が解雇された。これに対し、総評ら諸組合は直ちに反対運動に入り、反税闘争、ベースアツプ及び越年資金獲得の要求を結びつけ、漸次政治闘争化せんとし、一方朝鮮動乱に伴い我国の再軍備計画も次第に明白な形をとるに至り、翌二六年から単独講和か全面講和かに関して活発な議論を呼び起こしたが、労組の「再軍備反対」「中立堅持」「軍事基地提供反対」「全面講和」のいわゆる平和四原則に基づく平和闘争は、その後現在に至るまで長くその運動を支配しきたり、総評系労組の総会等においては、殆ど常に平和闘争をスローガンの一つとして掲げている(総同盟は後に、単独講和を支持した)。

また、昭和二六年の秋期闘争に際し、それより前から吉田政府が労働攻勢激化にそなえて企てた治安法規の制定、労働法規改定の動きに対し、総評傘下の諸組合は積極的に反対することとし、全国的に職場大会を開き、二六年一一月六日非常事態宣言を発して厳重に抗議し、政府の右意図は憲法所定の基本的労働権を蹂躙するばかりか、独占資本をこやす低賃金をもたらすものであるとし、日経連は一一月八日有名な「政治ストの法律的意味とその責任」と題する意見書(蓼沼=三二頁以下、労働年鑑二五集七四七頁以下)を出して、政治スト違法論を展開した。これに対し、総評法規対策部は、一一月一二日「弾圧法規反対闘争は政治闘争か」経済闘争かと題する反駁書(蓼沼=三三頁)を出した。

翌二七年に入り、破壊活動防止法案、ゼネスト禁止法案、労働法規改悪法案反対のため三波にわたる「労闘スト」が打たれた。

即ち、四月一二日第一波が二八万人を動員して行なわれたが、比較的小規模に終わつたことに気をよくした政府は態度を硬化し、同月一八日に予定の第二波を行なえば政治ストとして容赦なく弾圧すると警告したが、一八日には政府の右態度を不満として予定通り民間労組の殆ど全部が加わり、総数は炭労二七万を含め約百万に達したが、立法反対のみを目的としてストに入つた組合は少数で、多くは賃上げなどの目的をからませた。その他、賜暇、超勤拒否、職場抗議大会に参加した者は二百万を超えたといわれる。その後、これに力を得た各単産は「再軍備反対」「低賃金打破」等のスローガンを掲げて全国で九〇万、東京で四〇万がメーデーに参加したが、デモ参加者の一部は宮城前広場で警官隊と衝突、いわゆる「血のメーデー事件」が起こつた。第三波は、六月に入つて三回に分断されて行なわれたが大した成果はなかつた。この「労闘スト」は、日本最初の大規模な政治的ストといえる。

法規反対闘争はその後も継続し、昭和二八年七月のスト規制法反対のため三回にわたる職場大会、二四時間スト、三〇年六月から七月にかけての石炭鉱業合理化臨時措置法案反対闘争、三一年一二月の炭労によつて行なわれたスト規制法存続反対のための一時間五〇分の抗議スト、総評のみならず全労、新産別、中立系の各単産の行なつた三三年一一月の警察官等職務執行法改定案に対する全国的な抗議ストなどが行なわれた。

そして三五年には日米安全保障条約(安保条約)の改定に伴う最大の政治的ストが行なわれた。

二五年ころから、米国、ソ連間の冷戦の激化とともに、なしくずしに再軍備がなされるに至り、特に二六年のいわゆる単独講和の時から、労組の平和闘争は明確な形をとつたことは前述の如くであるが、三四年ごろ安保条約の改定が日程に上るや、防衛義務、事前協議、条約適用範囲、自衛力漸増義務などの諸点につき、憲法の平和主義に反するとし、三四年三月二八日安保改定阻止国民会議が結成され、同年未までに一〇次にわたる統一行動がとられたが、三五年に入り愈々反対の気運は高まつた。かくして、五月一九日遂に法案は国会議場の大混乱のなかに衆議院を通過したが、これに対し、新聞、学者らの多数が政府、与党の非民主的行動を非難し、一九六〇年五月一九日をもつて、「民主主義に対する政治的な奇襲攻撃がかけられた」日となす者もあつた(日高六郎編「一九六〇年五月一九日」(岩波新書)四六頁)。

こうして、六月四日、一五日、二二日の三回にわたり、大規模なストが行なわれた。第一次は四六〇万、第二次は五八〇万、第三次は六二〇万人がそれぞれ参加したといわれ、我国労働史上最大の規模のストであり、民間労組が政治的目標のみを掲げてストに入つたのは、労闘スト、警職法反対スト以来三回目であつたこと、市民のかなり強い支持があつたことの三点で画期的なものであつた。

その後は、昭和四〇年一二月、日韓条約強行採決に抗議して、国鉄労組等の抗議時限ストが行なわれた。

以上が我国における政治的ストの概略である。

二、政治的ストに関する学説

(一) 政治スト違法論

学説では、政治スト違法論は、むしろ少数説である。政治スト違法論者の論拠は、政治ストと経済ストを峻別することを前提として、

(1) 政治ストは、政府、国会を強要するので、議会主義、民主主義と矛盾する。

(2) 政治ストは、労使の団交によつて解決可能な事項の実現のためになされていないのであつて、使用者は不当な側づえを食うこと(側づえ論)憲法第二八条の団体行動権の保障は、団結権、団体交渉権とはなれて観念的に保障されるものではない。

(3) 労使間の意見不一致にもとづく具体的な労働条件の維持改善を直接目的としないものであるから、労働法上の争議行為とはいえない。

(4) 政治ストを合法と認めるならば、個人の政治的平等という近代法原則に矛盾し、法律概念として認め得ない労働者の階級連帯に法律的保障を与えることになる。

(5) ストを独占的な労働力取引上の現象と理解し、また政治ストは個々の労働者に特定の政治的見解を強制し、労働の自由の侵害になるから違法である。

などの諸点にもとめられている。

以下、違法論の立場に立つ学説を紹介する。

(1) 労働省の行政解釈

(労闘ストに際して出された、東京都知事に対する労政局長回答 昭和二七・六・五)

労働省は、

「国会における立法に反対する如きストイキは、一般にいわゆる政治ストに該当するものであつ、憲法第二八条で保障する団体行動権の範囲を逸脱した行為である。従つて、かかる政治ストは労働法上の不当労働行為、刑、民事上の免責等の保護は与えられない」「政治ストを行つた者又は責任者に対して使用者は解雇その他相当の処分を行い又は組合その他の者に対し損害賠償の請求をする事ができ、その行為が刑法その他の刑罰法規の規定に該当する場合には処罰を免れ得ない」

とする。そして、

「政治ストか、経済ストかは、その実体によつて判断されるべきであつて、政治目的が主体であるならば、これに仮装的に、又はつけ足りとして経済的目的を加えても、それは政治ストと解されるべきである」

という見解を示した。

(2) 日経連の見解

(昭和二七年一一月八日・日経連「政治ストの法律的意味とその責任」)

右の意見書に示されている日経連の政治ストは違法とする

主張の要旨は、

(一) 立法反対ストのような政治ストは、労使間の意見の不一致によるものではないから労働法上の争議行為ではない。

(二) また、政治ストの目的となつている事項が、労働者の地位と何等かの関連をもつものであつても具体的な労働条件の維持改善をその直接の目的としない以上労働法上の保護をうけ得ない。何故なら争議権は団体交渉権を効果あらしめんがためのものとしてのみ認められており、団体交渉権の直接の目的は労組法二条及び一条に徴して具体的な労働条件の維持改善に限られているからである。

(三) かりに政治的要求も労働条件の維持改善と関連をもつ限り労働組合の副次的な目的事項となりうるとしても、これを達成する手段として、争議行為に訴えることは議会主義の否認となり到底許されない。

(四) またかりに具体的な労働条件に関する要求を同時に提出して経済ストの如く装つても、真実の意図が政治的目的の完遂にある限り争議権の乱用と断定することも可能であろう。

(五) さらに政治ストがかりに争議行為であると仮定し、その目的が労働条件の維持改善と何らかの間接的な関連をもつとしても、その手段は必要やむを得ざるに出たものとはいえないから、補充の原則に反し権利乱用として違法な争議行為となる。

(六) 以上のように、政治ストは労働法上の争議行為とはいえないから労働法上の争議行為に対して与えられる法的効果は、政治ストには認められない。かりに百歩譲つてそれが争議行為だとしても違法な争議行為として、正当な争議行為についてのみ認められる刑事、民事の免責、不当労働行為制度による保護は与えられない。

と主張したのである。

(3) 吾妻光俊教授

現代法学全書・労働法一七五頁

「政治スト……の場合には、争議行為の行なわれる理由は労働条件その他の労使関係とは関係のない事由に存するのであり、従つて当事者間において解決すべき余地のない紛争として、行政機関の関与によつて解決に導くことをも不可能とする紛争であるから、労働関係に関する主張の不一致を理由としないものとして、労働争議にあらずとすべきである」

右同二一六頁以下

「これらの同盟罷業の形態は労使の対抗関係を規整する労働法の対象たる性格を有せず、またこの種の行動を特に労働組合に保障すべき社会的合理性も存せず、もし、これに市民法上の免責を認めるならば、反つて、個人の政治的平等の近代法原則と矛盾し、また法律概念として認め得ない労働者の階級的連帯に法律的保障を与えることとなる。従つて、この種の同盟罷業は、憲法第二八条の保障する争議権の行使としての性格を有せず、従つて、市民法の評価にさらされざるを得ない。而して、これらの同盟罷業は、その影響を受ける使用者との関係において、原則として損害賠償責任を発生せしめ、かつ威力業務妨害として刑事責任を発生せしめることとなる。」

という見解を表明しておられる。右の点は、別の表現としては、次のとおりにいわれている。

講座労働問題と労働法3「労働争議と争議権」八四頁

「刑事民事の責任については各本条に照して、犯罪、不法行為等の構成要件を充足するか否かを判断すべきに止まる」ところが他方では、

演習講座「労働法」八四頁

「政治スト……といつても、その純粋な形態のみについて右の如き取扱い(法律的責任に関する評価において一般の同盟罷業と区別すること……注)が行なわれるべきであり、同時にいわゆる経済要求を含んでいる場合には、それが完全な名目に過ぎない場合を除き、その全体を一般の同盟罷業と同視すべきである。右両者を分離して、法律的に評価することは不可能だからである。」

と説かれ、そのような経済要求を含んだストの場合には正当だと解されているようである。

(4) 石井照久教授

法律学全集・労働法総論三三八頁以下「団結権、団体交渉権及び争議権は、密接な相互関連において保障されたものであり、且つその相互の間においては、団体交渉ということを目的とするものであるから、争議権は団体交渉という目的との関係において、その限りで保障されたものというべく、労働組合法は、この趣旨を確認したものと解すべきである。

この意味において、憲法は争議権を、労働者が対使用者との関係を通して、その経済的地位を向上するための基本的手段として保障したものというべく、この点に、労働法における争議権保障の限界、換言すれば、争議行為の正当性の限界即ち刑事上の免責をうけるか否かということを判断するについての法的基準を示しているといわねばならぬ。そしてまたこのように解することは、争議権の保障のうちに、とくに民事上の免責として、労働者が、労働契約上の債務を履行しないにかかわらず、使用者に対する債務不履行による損害賠償の責任を免れうること、換言すれば、使用者に「損害の甘受」をなさしめるものであることとの間に調和をみいだすものであるといえる。即ち労働法における争議行為の正当性の問題は、争議行為として展開されている行為が「一般的」に正当であるかどうかというような価値評価の問題(例えば、労働組合が、どの程度に政治的活動をなしうるかというようなこと)ではなくして、「対使用者との関係」として使用者に、当該の争議行為の結果を甘受せしむべきであるか否かの問題にすぎないことを注目すべきである。従つて争議権は、使用者との関係においては、団体交渉権についても指摘したように、労働者の団体がその目的として実現せんとするところのものが、一般的な意味において使用者として法律的ないし事実的に処理しうるような事項に属する限りにおいて、憲法上保障されていると解すべきである。この意味から、例えば特定の政府の退陣を主張し、或は特定の労働法規の制定などに反対してなされる争議行為、いわゆる「政治スト」は正当な争議行為ではない。……しかし、労働者の経済的地位の向上も社会的ないし政治的地位の向上と密接に関連するものであるから、なにが、「経済的地位」であるか、その区別をつけがたいものが少くなく、労働者の主張のうちに若干政治的なものが加味されることがあることは当然に予想しうるところであり、それゆえに当然に、その争議行為を違法とみるべきではない。」

(5) 田辺公二氏

司法研究報告 七輯四号「同盟罷業権について」一二七頁以下

「罷業を使用者との独占的労働取引上の現象として捉え、かつ一個の独占活動として個別的取引停止の場合と異なり、当然に一定の法的規制に服すべきものと考える以上、もともとかような罷業法理の予想していない、経済目的以外の目的の達成のために、使用者を労働市場から排除することは、到底適法とはいい難い。「

また政治ストを行なうことは、

「その強い統制力を行使して、組合員に特定の政治的見解の表明を強いるのと同一の意味をもつから」

それ故に

「独占力の乱用による個々の労働者の「労働の自由」……の侵害を意味する……。」

とされている。

(ニ) 政治スト合法論

政治スト違法論にたいして、わが国の労働法学者の多くは、一般的に政治ストも労組法上の保護を受くべき正当な行為である、とする見解を示している。合法論の論拠としては

(1) 経済と政治の密着性、従つて経済ストと政治ストの区別の困難なこと。

(2) 使用者と国家ないし政府の一体性(側づえ論に対する反論)。

(3) 争議権が保障されるに至つた歴史的性格

(4) ストイキの目的がもつている大衆的意思表現という性格

(5) 政治ストは、労組に圧力団体としての機能を果させ、資本家―使用者の団体の政府に対する圧力と均衡を保たしめ議会主義と矛盾しないのみでなく、却つてこの精神にそうものであること。

(5) 憲法二八条は労働者の集団的行動を包括的に保障したものであるから政治ストもこの中に含まれる

(1) 野村平爾教授

日本労働法の形成過程と理論 八九頁以下

同教授は、右書において、まず

「ストライキの合法性を判断する場合に……その目的と目的実現のためにとる手段の類型をあげて、両面から検討を進めるのが普通である」

が、

「ある目的だけが正当性をもち、他のそれは不正だということは、頭から一定範囲のストライキを違法視することになるので争議目的からの正当性の判断は

「沿革的にはストライキを弾圧するための理論としてあらわれてきた」

と指摘され

「ストライキは法律以前に存する社会的現象なのであるから、変化する社会的現象そのものに即して争議の目的に基く性格を観察するということは、何よりも大切」で、「単にストイキの頭に政治をつけたり、経済をつけたりすることでそれが合法になつたり非合法になつたりするものではない」

とされている。そして、政治ストの正当性を次のような三つの観点から主張されている。

第一には、

「労働組合運動は、すでに百五十年の歴史をもつている。だから労働階級が歴史をかけて主張し犠牲をかさねつつ実践してきたところを基準として団体行動権のもつ意味を考えなくてはならない。」

のであつて、憲法二八条が、

「団体行動権の保障を、団結権の保障の他に敢て規定したというのは、政治的ゼネストによつて獲得したワイマール憲法のうち、団結権の保障のみしか記させなかつたという労働階級の苦しい経験の上にあらわれたもの」

であること、さらに

「第一次大戦から第二次大戦に至る間を例にとつてもいくつかの政治ストや政治的性格をもつとみられるストライキを経験しているという……国際的経験」

などから考えると政治ストは正当である。いいかえれば

「歴史的に団体行動権の意義を理解するならば、このようなストライキも憲法のいう団体行動なのだと考えざるを得ない」

と説かれる。

第二に、

「団結はその副次的目的として政治的目的を持つことも可能だし、また経済的目的を達するために政治的団体行動をとることの必要ももとより少くない。しかし、このような明確な政治的団体行動に出ない通常の経済ストの場合でも、凡そストライキというものには、何ほどかの労働者一般としてのプロテスト或は労働者階級としての意思表示に当るものが含まれている」

のであつて、

「集団としてしか「抗議」しえない労働者がとるところの大衆的意思表現のもつとも高度な仕方がストライキという形になるのである」

そして

「このような意味のストライキの目的の性格は、資本主義の発展に従つて、在化し……労働組合の組織が拡大し、独占資本のもつ政策に対決するようになればなるほどストライキの性質も不可避的に政治的な形をとらざるをえない」

こととなる。また

「資本制世界は今日いつでもフアシズム的政策を実現する可能性を抱いている」ので、

「労働組合がこのようなフアシズム労働政策に抗議する行動をば、組合の団体行動として保障するというのでなければ団体行動権の存在を確保することはできない」このような意味から政治ストは正当であると説かれるのである。第三には、

「発展した資本制社会においては、労働組合は一つの圧力団体でありその圧力作用の一つとして政治ストは肯定されなければならない」

と主張される。すなわち、

「資本主義が独占段階にすすむと、巨大資本と政府との癒着がはつきりし……政府と資本家団体が一おう形式的には別だとしても、いわゆる圧力団体としての資本家団体……巨大資本が事実上一切の政策を支配するようになることは、政治経済学的な分析が示すところである。従つて、労働者の生活に直接ひびく経済政策や、労働政策と闘うことなしには労働者の経済的地位の向上という組合の目的は達せられない。そしてこのような政策に対する反対は、大衆的行動を通しての教育宣伝なしに大衆のものとならないから……立法政策の推進や阻止のための示威行動としての政治的ストライキはその必要があつて生れたし、また是認せざるを得ない理由をもつてくる。

そこで政治ストは

「憲法第二八条の団体行動権の一つの内容だと考える」

といわれるのである。野村教授はこのような三つの観点から政治スト合法論を主張されるのであるが、さらに

「労働者が自己の利益のためにストライキを行いうるならば自己を含めて国民一般の利益になる場合の権利行使があつた場合は尚更正当性を認めていい筈ではなかろうか」

と説いておられる点から考えると、その正当性は純粋政治ストの場合についてまでも認めておられるようである。

(2) 沼田稲次郎教授

団結権擁護論 一四四頁以下

「然しながら、憲法二八条の保障する権利は右のような主なる目的(団結による労資の実質的不平等の克服と強い団結力や争議力を背景とした真の自由平等の立場で作られる協約秩序の形成―著者註)をもつものにつきると解してはならない。このように解釈して労働法改悪反対のストライキが“政治スト”であつて違法であるという風に考えるのは間違いである。というのは我国の憲法の出来たのは二十世紀の中葉であるということによる。即ち、世界各国の労働運動はもう既に幾多の立法斗争や国家の政策を要求する闘争を重ねて来ており、かかる闘争も団結と争議とによつて実現せられていてかかる闘争を除いて団結権や争議権を保護するには、特にその旨を憲法自体において規定しておかねばならない。特に、除外規定がない限りは、団結権、争議権の歴史的内容においてこれを保障したものと解釈するより他ないといわねばなるまい。」

とされ、憲法二八条は、少くも

「労働立法に関する要求や今日の経済常識上労働者の生存権に深い影響を与える国家の政策に関する要求をかかげる争議の権利を保障していると解するのが正しい」

とされている。

そして、

「共産党弾圧反対とか不平等条約廃止とかいう要求をかかげるものは憲法二一条の問題である」

と主張しておられる。

(3) 後藤清教授

講座労働問題と労働法3「労働争議と争議権」一一九頁

「争議権は、団体交渉の支柱をなすものとしてみとめられたものであるとはいえ、ただ賃金その他労働条件の維持改善を直接の目的とする場合に限つて合法であると狭くすべきではない。団体交渉は労働運動の結果現象にすぎないのであり、労働者としては団結を維持し、さらにその基盤としての三大基本権を擁護することが、労働運動の根本的出発点であるから団結を維持する必要のある場合もしくは三大基本権がおびやかされたときにこれに抗議する場合に、ここ政治ストなどの形をとつて行なわれることがあつてもやむを得ない場合がある。もとより労働組合は政治運動を主たる目的とする団体ではないから政府の政策の変更を余義なくせしめるまで圧力の手をゆるめないようなストライキは、限度を超えたものとなるが、労働者の抗議を表明するための方法として行われる限りは、憲法にいわゆる団体行動の一方法であり、合法な政治ストである」

と説いておられる。

この見解は、純粋政治ストについても団体行動権の一内容として正当性を認められるかどうか判然としないが、「抗議を表明するための方法として行われる限り」政治ストの正当性を認められることからおしおよぼせば、すくなくとも憲法第二一条の表現の自由という観点から純粋政治ストの正当性を認められるものであろうか。

(4) 松岡三郎教授

講座労働問題と労働法3「労働争議と争議権」一五三頁

「いわゆる政治スト或は同情スト更にいかなる目的をもつたストライキせよ、それを処罰することは強制労働に該当する(憲法第十八条―著者註)。従つてこれらのストライキの合法性は民事責任の問題との関連において重要である」

とされ、

「労働条件の維持改善のためのストが労働法の保護の枠内にあるなら、その基盤となる団体交渉力の維持改善のためのストも、その保護の枠内にあると解すべきで」

とくに、

「わが国の如く労働者の団体交渉力、その経済的地位が他の産業内の労働関係の動き及び政治の動向に密接な関係をもつ国においては……解釈論としては、同情スト更に労働法改悪反対ストも可成り大幅に認めざるを得ないであろう」

とされている。この見解も、純粋政治ストについて言及してはいないが、「いかなる目的をもつたストライキにせよ、それを処罰することは強制労働に該当する」というのであるから、すくなくとも刑事上の免責があるという点においてその正当性を認める立場に立たれるものであろう。

(5) 磯田進教授

講座労働問題と労働法3「労働争議と争議権」一一〇頁以下

「単なる労務提供拒否の意味におけるストライキそれ自体――すなわちピケツテイング等の随伴行為の問題をはなれて――に対して刑事罰を課することが、憲法一八条のいわゆる強制労働の禁止にふれることはいうまでもないが、これに対して民事責任を追求することもまた同様である。」

これは政治ストの場合でも同じに解すべきである。従つて政治ストは合法でたゞ「乱用」の問題が生じ得るだけであると説いておられる。この見解も純粋政治ストについては言及しておられないが強制労働という観点から民刑事上の免責を認められる考えを推しすすめるならばその正当性を認める立場に立つと考えられる。

しかし、磯田教授が、憲法一八条を根拠に民事免責を認められていることに対しては、「苦役の禁止は、刑事免責の根拠としては理由があるが、民事免責の根拠としては合法性に乏しいように思われる。例えば、婚姻自由の原則は、婚姻予約或は真の婚約不履行に対する損害賠償請求を排斥するものでないと、少なくとも日本で考えられていることは参考になる」(古田時博司法研究報告第一六輯第一号 一四四頁)との批判がある。

(6) 蓼沼謙一助教授

月刊労働問題一二号「政治ストの構造と法律関係」一三五頁

「憲法上の争議権の保障は、労働組合が現に資本主義社会のなかにおかれている労働者の日常的生活利益の擁護という第一目的そのものの実現のためにも展開せざるをえない政治スト、しかも暴力革命武装蜂起の前段階でなしに、組織労働者の平和的な統一的意思の示威的表明という性格においてとられるデモ・ストないし抗議ストとしての政治ストについては、争議権の行使という性格を認める趣旨であると解して」

民刑事上の免責が認められるという意味での「正当性」を有するとされておられる。

(7) 山中康雄教授

法学理論篇「労働争議」八四頁以下

「なにが正当なる争議行為であるかは、資本主義国家における争議行為なるが故に当然おわねばならぬところの制約の範囲内の争議行為をいうと解すべき」

であるとされ

「資本主義国家における争議行為は、資本主義国家を顛覆させること、あるいは革命を促進させることを直接の目的としたり、あるいは、これに類することを直接主要の目的とするものであつてはならない。

たゞし第二次的に政治目的をともなうにすぎぬときは、違法ではない。たとえば、資本家階級を階級敵とみ、搾取する資本家階級すなわち使用者たちにたいする労働者たちの闘争を組織し、熾列ならしめようとする政党が存在し、その政治活動に指導せられて労働争議が発生し、争議行為がなされたとしても、争議労働者たちが、その労働条件の向上を直接の目的として、争議行為をしている限り、違法ではない」

と説かれる。そして、ただ

「純然たる政治ストのごときは……正当なる団体行動ということになつて刑事上の免責をつくるというようなことはありえても(労組法一条一項)、使用者にたいする関係で債務不履行の責を免れしめるものではないと思う」

と述べておられる。

(8) 峯村光郎教授

講座労働問題と労働法3「労働争議と争議権」一〇一頁

「憲法第二八条および労組法第一条第二項、第七条、第八条などによつて保障されている争議行為であるかぎり、それが……労働法規改悪反対のためになされる労働者の団体行動による意思表示としての政治ストであろうと法上許されることは当然である。但し労働者および労組と直接関係のある労働法規改悪反対という問題と異なり、直接関係にない再軍備反対のための政治ストのようなものは、労働法上は認められない」

(9) 津曲蔵之丞教授

前同書 八九頁以下

「立法反対又は法律改正反対の政治スト……の正当性の判定基準としては、その立法が、労働条件について直接に規制しているか、間接的であるかによつて判断するほかなく、直接的な立法例えば労働基準法の改正反対の政治ストは正当であるが、間接的な立法例えば再軍備関係の立法反対のストは正当ではない」

と説いておられる。

右の峯村、津曲両教授の見解は純粋政治ストについては論及されていない。しかし、それが労働法上正当でないとしても、市民法上もまた正当でないと解されるものではないようである。

(10) 有泉亨教授

前同書 一二四頁

「政治ストは、政治目的そのものの面からは、一応労働法の保護の外にある。それが、労働者の基本権を守り、労働条件の向上と結合している限りにおいて、労働争議となり得、その合法性の判断は、労働法の基準によつて下さるべきである。」

と説いておられる。換言すれば次のとおりである。

労働争議の法理 一三〇頁以下

「それが、直接には政治的目的であつも、究極において労働者の地位を目ざすものである限り……労組法一条二項の適用をうけ……争議手段も通常の範囲を出ない限り――ことに罷業であれば原則として――そこに違法性は存しない、具体的な政治争議が違法であるかどうかは、それが「公共の福祉」に反し争議権の乱用であるかどうかという憲法第二八条、第一二条の適用の問題に帰着する」

とされるのである。そして

「政治争議がゼネストの形をとつて、単なる政策の要求ではなく倒閣運動を展開する場合は、議会制度によつて民主主義が実現されるという立前をとる限り、争議目的としては容易には適法のものたり得ない。そこまで行けば「労働者の地位の向上」との近親性はかなりうすくなる」

「しかし目的が適法でないことは直ちに争議を犯罪たらしめるものでないことは言うまでもない。単にかかる争議行為は労組法第一条二項や第一二条にいう「正当のもの」でなくなり、従つてその手段が一般の刑罰法規に触れる場合にはその限りにおいて犯罪を構成するというにすぎない」

だけであると主張しておられる。

(11) 三宅正男教授

前同書 一〇八頁以下

「労働力は個人労働者のものであり、彼が労働力を売らないこと……は理由や目的のいかんを問わず合法的である」

から、

「政治ストも……手段がさきに述べた近代法のルールに反しない限り、もちろん合法的であつて民事上刑事上何らの責任も生じません。そして現在のところそれらのストを禁止する立法もありません」とされている。ただ、

「そのようなストライキに対し資本家側が(本来合法的な、解雇すなわち「買わない」という手段で)差別的取扱をすることを労組法の不当労働行為制度が禁止しているかどうかは全く別の問題です」とされたうえ、

「政治ストが、団体交渉の権力的擁護助成を目的とする(労組法によつて「正当な行為」として権力的に擁護助成されると考えるのは非常識です」

といわれるのである。

(12) 横井芳弘教授

討論労働法六三号「憲法二八条と組合の政治活動」三五頁

「労働法規改悪反対ストは労働法上の保護を受け得るが、純粋政治ストは受けない。しかし、それは保護を与えられないというだけで市民法の平面でも違法だというのではない」

三、西独の新聞スト判例

ドイツにおける政治ストは、一九二〇年三月一三日のカツプの反乱に対するゼネスト、一九二二年六月二四日の外務大臣ラーテナウ暗殺に対する抗議スト、一九二三年仏軍ルール占領反対のスト、一九四八年、一一月一二日連合国軍経済地域において行われた一日ストなどのほか、一九五一年共同決定法の成立にさきがけ、一九五〇年暮より翌年初頭にかけ、金属産業及び鉱山業両労働組合のとつたゼネスト態勢の確立などがあるが、最近もつとも著名で、それを契機として、政治ストの民刑事責任をめぐる論争が活発に展開され、多数の判例、論文などが出されたのは、一九五二年五月下旬の新聞ストであつた。ドイツにおける右の新聞ストについての判例、学説などは、「政治スト及び同情ストの法理」(古田時博、司法研究報告第一一六輯第一号)に詳しくまとめられている。

新聞スト及びそれに関する裁判の要点は次のとおりである。なお新聞ストの経緯については、ニツパーダイ鑑定書(法務資料三六九号)の前編「事実関係」の項に詳しい。

一九五二年組営組織法の法案が、連邦議会に上程されると、ドイツ労働組合総同盟(DGB)は、右法案をもつて(当時)経営関係法規を改悪し、一九二〇年の経営協議会法の線よりさらに後退するものであり、被用者と使用者が真に共同決定することを妨げ統一ある労働運動を切り崩す意図を有するものであるとして反対し、闘争に入ることを宣言し、アデナウアー首相、使用者団体等の反対にも拘らず、遂にDGB傘下の印刷用紙労働組合が、一九五二年五月二七日正午から丸二日間、新聞部門の労働を放棄し、日刊新聞は休刊となつた。

同スト終結後、印刷工場や新聞発行所は、右ストによる損害賠償請求権を、その加盟使用者団体に、債権譲渡し、使用者団体が原告となり、DGB、印刷用紙労働組合及び、その組合役員らを被告として、損害賠償請求訴訟を労働裁判所(ごく一部は普通裁判所)に提起し、大部分の裁判所が、原告勝訴の判決を下した。その過程において、鑑定がなされ、使用者側の鑑定書として、ニツパーダイ、フツク、フオルストホツフ、労働組合側の鑑定書としてアーベントロート、フオン・カロルスフエルトの各鑑定書が出された。

そして、右訴訟の争点は多岐にわたつており、管轄権(普通裁判所かいずれの管轄か)、損害賠償請求権の根拠法条はBGB第八二三条第一項か、第八二六条か、憲法上の違法性は直ちに、民事上の違法即ち不法行為を構成するか、労働協約の解釈と効力仮定的原因の理論――即ち、被告らが政治ストを行なわなかつたとしても、もし被告らが、彼らの要求にそう経営組織を労働協約で決めるよう要求してストに入つたと仮定すれば同じ損害が原告側に生じたであろうから、原告の請求は理由がないという理論――の当否などであつた。

新聞ストに関する判例

(第一類型) 新聞ストを民事上完全に合法であるとした裁判例。これはその理由からして、刑事上の合法を推測せしめる。

ベルリン地方労働裁判所(一九五三・八・一七判決ベルリン労働裁判所控訴審)

要旨 「ストは、示威運動でありうるが、ストが具体的闘争目標をもたず、労働者階級の意見を強力に表明することにある場合には常に示威運動である。新聞ストは労働者に不利益な活動をしている連邦議会に対し、注意を喚起し労働者がこれを是認していないことを表わすためのデモであつて、被告印刷用紙労組の労働協約第一四条第二項(協約違反のストやロツクアウトを援助しないこと。但し、協約の相手方のみを目標とするものではないゼネストやデモはこの限りでない旨の規定)によつて、平和義務に違反しない。

ストが単に議会に向けられているというのみの理由で、政治ストを評価することは適当でなく、むしろ、(イ)議会が何を規制しようとしているか、及び、(ロ)議会の決議に対し影響を及ぼすことについて、ストが許さるべき手段であると認められるか否かが決定的な重要性を持つとし、(イ)について、経営組織法は労働協約法第一条により、労働協約によつて規制しうる問題を取り扱うもので、本来社会的当事者の自治に委ねられた問題は、立法者が協約当事者からこれを取り上げて立法の問題とすることによつて、自治的な組織に関する法に従うものであるとの制格を変えるものではない。この問題を協約によつて規制し、使用者の同意をストによつて強制することは(労働協約が適用される場合は同第一四条所定の調停手続を経た後)、全く合法的である。また(ロ)については、ストの態様から見ても、新聞ストは国会は国会議員の議決の自由を脅かすに足るものとは認められない。労組の意思表明のための示威運動としての短期間のストは、ペンジン税反対のため自動車所有者が議会に圧力をかけるため、各地からボンに向つて行進した星形行進(Sternfahrt)と違つた効果を及ぼすものではない。両者の行動はともに、民主主義国において議会が計画している手段によつて影響を受ける者に許された行動で、基本法第三八条に全く合致したものである。同第二一条は政党以外の他の組織に、政治的意思形成について協力することを排斥していない。

国会等に不法な強制を加えない限り、政党以外の組織は、その意義に応じ、国家、経済生活において、政治的意思の形成に協力する完全な権能がある。但し、国会に対し一定の目標達成の目的をもつてなす不定期間のストが、違法な強制となるかは疑問である。ベルリン州憲法第一八条第三項は、「スト権は保障される」と規定するが、該憲法は、労組のスト権を、それが使用者以外の者に対する目標をもつものでも、純粋な基本権として、保障している。そして、基本法ではスト権について何ら特別な規定を設けていないので、州としては、独立の立法をなしえ、右ベルリン憲法の規定は有効である。また、告知のないストは、実務上の必要性からきており慣習となつている。そして正当化理由のない限り開店開業中の営業(eingerichteter und ausgeu-bter Gewer bebetried)に対する侵害はBGB第八二三条第一項違反の不法行為になることは、通説と同意見であるが、本件では以上述べた理由により、違法性がなく、故意に良俗に反して損害を加えたものとも認められぬから同八二六条違反ともならない。」

この裁判例は、まず政治ストを具体的闘争目標をもつもの(いわゆる政治闘争スト)と、意見を強力に表明することだけのもの(いわゆる抗議スト)にわけ、後者を示威運動として認めていることは、高く評価されるべきである。

そして、新聞ストの事案においても、議会に対し意思表明をするためのデモであるとみて、民主主義国において議会が計画している手段によつて影響を受ける者に許された行動であるとし、その根拠を、ベルリン州憲法第一八条三項の「スト権は保障される」との規定にもとめている点は注目に値する。右条項は、日本国憲法第二八条に相当するものである。そして、右裁判例は、ストの態様として、丸二日間にわたるストを「短時間」のストとして容認していることも、わずか一時間のストでも公共の福祉云々を金科玉条のごとくかかげて違法視する日本の裁判所との意識のひらきを示しているものである。もちろん「示威運動としてのスト」を認容する、かかる裁判例は、ドイツにおいても異例に属することはいうまでもない。しかし、日本においては、この程度の意識水準の裁判例は、おそらく一つもないといつてよいであろう。現実の裁判例としてかかる裁判が存在しうる西ドイツの裁判所の零囲気は貴重といわなければならない。しかも、この裁判例は、控訴審判決なのである。

そして、この裁判例の論理に従えば、新聞ストは、議会強要罪(ドイツ刑法一〇五条)を構成しないことはもとより、一切の刑事免責をうけるものと考えてよいであろう。民事事件であるため、刑事上の判断を明示してはいないけれども、右裁判例は、新聞ストに関する多数の裁判中、最も明確に新聞ストの民刑事上の免責を根拠づけているものといつてまちがいない。

新聞ストに関しては、刑事事件として起訴された例はなかつたようである。この点は特筆すべきことである。鉄道ほどではないにしても、公共性の大きい新聞ストが、二日間行われ、しかも使用者団体が、債権譲渡をうけてまで法廷闘争を展開するほど力をいれているのに、ストに対する刑事弾圧は行われていないのである。

その他、新聞ストを、民事上合法であるとして、原告の損害賠償の請求の主張を排斥した裁判例は、オツフエンバツハ、ウツベルタール、アウグスブルク等の各労働裁判所のものである。

(第二類型) 新聞ストを民事上違法であるとしたが、刑事上合法であることを明示した裁判例

フライブルク地方労働裁判所LAGFrei-burg V.13.4.1953,NJW 1953 S.1278

要旨「基本法も州憲法もいずれも、政治ストについて規定を欠いているので、制度としての政治ストは、基本的には、憲法違反ではなく、憲法上価値判断がなされていないことになる。従つて、個々の政治ストが憲法の原則に反するか否かが検討されなければならないのであつて、戦犯の釈放要求、或は物価騰貴、高い占領費に反対するため等の一時的労働停止による示威運動は憲法違反ではない。

新聞ストは、本来二日間と期間が制限されていて、かかる短い期限付のストは、通常デモと看做さるべきである。ラジオは、ニユースの伝達上新聞と殆ど同価値であるが、これはストによつて影響されなかつたので、新聞ストはごく限られた範囲でのニユースの締出しで、使用者に与えた損害も比較的軽微であつて、国民経済上も重要な意義のあるものではない。被告労組は新聞スト当日議会で、経営組織法が確定的に議決されるのでないことを知つており、議員は、後日のストの脅威を感じないで議決し得たこと等の諸事情により、被告は、彼が、右法案の変更を希望していることを知らせることのみを欲していたものと認められるのであつて、被告が社会的に相当な方法で自己の見解を、立法機関に表明する権利を有することは明白である。被告は激しい言葉を用いて、それ以上の有力な闘争手段に出ることを表明していたが、経験上それを実行する気持がなかつたと認められるものであり、農民の抗議集会、家屋所有者、値家人らのデモ行進が、関係法案の議会での審議に当たり、全国的に行なわれ議員に影響を及ぼすことは、労働の活動と同様で、それらの行動が大規模に実施されない限り議会強要罪にはならぬ。かくの如き次第で、新聞ストは、憲法上刑法上違法ではない。

としているが、

これをもつて民法上の合法性が証明されたわけではなく、BGB第八二三条第一項の「その他の権利」を侵害したものであるから損害賠償義務がある。

として、民事上の損害賠償義務の根拠を次の点に求めている。

「いかなる前提のもとに、ストが私法上許容されるかについて、法律上の規定はないが、凡ゆるストライキが無制限に法律秩序により是認されていると解さるべきではない。私法的にはストは、単は労働争議の制度(Einrichtung des Ardeits Kampfs)としてのみ許される。即ち、ストが使用者に向けられ、ストの目標の実現が使用者との間の私法的な労働法上の合意によつて達成しうるときにのみ、換言すれば、最も広い意味における、労働条件に関する場合に限り、労働者は労働契約に違反することなく就労義務に従わないことができる……と、ニツパーダイ鑑定書を引用し、新聞ストはこの限界を守らず、第一次的に立法者に向けられていて、社会的当事者間の合意は、当時全く不可能な状態であつた。被告らの行為の違法性は、労働者をしてその労働契約に反して違法なストライキを実行させ、直接出版業者らに損害を与えた点に求められる。」

この裁判例も、前記ベルリン地方労働裁判所のそれと同じように、政治目的をもつてする一時的労働停止(スト)行為を示威運動として憲法違反でないと認容している点は非常に価値がある。

そして、ここでも、丸二日間の新聞ストを、「短期間」のストとして、その短期間の故にデモと看すべきであること、新聞がなくてもラジオにより代替しうるものであること、議会に強い影響を与えたものでないことなどから、新聞ストが社会的に相当な範囲内にあると断定している。

この裁判例は、違法について刑事上の違法と民事上の違法を別個に考えている。示威運動としてのストならば、その態様において社会的に相当である限り、刑事上は合法であるとする。しかし、刑事上合法である示威運動としてのストも私法上合法とはならない。私法上合法であるためには、労働争議(ストが使用者に向けられ、ストの目標の実現が使用者と被用者との間の私法的な労働法上の合意によつて達成しうるとき)でなければならないとするのである。従つて、逆に私法上、合法であるとするためにストが、労働争議でなければならないとしても、労働争議でないこと(政治スト)が、刑事上の問責の根拠とはなりえないことを暗示している。

(第三類型) 新聞ストを刑事上も民事上も違法であるとした裁判例

フランクフルト地方労働裁判所 LAG Frankfurt a.M.Urt.V 20.2.1953 A 195 195

要旨「政治ストは、社会的ストの対立物であり、労働条件の改善を使用者以外の者、即ち官公庁に要求するストであつて、ストを受ける使用者が、ストによつて要求されているものを満足させ得ない地位にあるという点で、本質的に社会的ストと区別される。従つて、労働法をめぐるストは、より良い労働条件を獲得するため行なわれることは、社会的ストと同様であるがやはり政治ストである。本件ストは、使用者にできるだけ損害を与えないよう代替労働者の手配をしたこと、DGBの経営組織法反対のための計画的行動の一環としてなされたことなどの諸事実から、使用者を相手取つたものでなく連邦議会に対してなされたものと認められる。

立法は、完全に独立した最高の国家機能であり、立法者は利害関係ある社会的当事者間の調停者として扱われているものではない。従つて、争いある労働関係法制定に当つて、立法機関は、労使の仲裁人たる地位に立ち、この際起こる争議は、社会的当事者が労働協約により、労働条件を規制しようとするストと同一のものであり、従つて社会的相当性があるとするアーベントロート等の見解に与することはできない。また被告は、本件は、社会的相当性ある同情ストであると主張するが、使用者が第一次ストを受けている使用者に、その連帯性の枠内で働きかけて、ストを避けうる地位になかつたので、同情ストとはいえない。

政治ストが、労働法上、民法上違法なことは通説的見解である。ところで、憲法上ストが権利として承認されている例えばヘッセン州のおきも社会的ストのみが保障されているので政治ストは憲法上違法であるが、たとえ憲法上合法であるとしても、民事上の合法性とは無関係であり、また議会強要罪を構成するか否かも私法上の違法性と直接の関連性はない。違法性は、当該法領域の固有の観点から判断さるべきものである。開店開業中の営業の存立がBGB第八二三条第一項の保護法益と考えられてきたことは、学説、判例の承認するところであるが、一九五一年一〇月二六日の連邦最高裁判決は、営業の存立に対する直接的侵害のみならず、営業活動の直接的阻害も同法の保護するところであることを明らかにした。このように、法益が拡張されたので違法なストに対し、同条項が適用されることになる、違法性は社会的相当性の有無によつて決せられるのであり、相当性ありとされるためにはストの相手方が使用者であること、及びその目的が労働条件に関する場合に限るのであるが、新聞ストの如きは、社会的相当性なきものとしてBGB第八二三条第一項の損害賠償責任を生ぜしめる。また、被告組合は権利能力なき社団であるが、その責任は同第八三一条から、また組合役員の責任は同第八三〇条第二項から生ずる。」

この判決は、全面的に、本件ストの民事上の違法性を、社会相当性の欠如に求めている。

四、わが下級審判例

新潟・東三条併合事件

新潟地裁昭和三九年一〇月二六日判決公務執行妨害、暴行、暴力行為等法律違反脅迫被告事件

国労関係裁判判例集第四巻 二五〇頁

要旨「一、政治ストは使用者への経済要求ではないから通常労働法上違法とされるが、現憲法秩序を侵害する虞のある公権力(政府与党の政治権力)の行使という緊急事態のもとで敢行された場合は、超法規的違法阻却事由となることがある。

二、警職法改定案は、労働運動、言論、集会の自由等基本的人権を侵害する虞のあるものであり、その反対意見表明は何ら非難されないが、てんてつ器を占拠するなど列車の正常の運営を阻害するのは、高度の良俗違反で違法である。」弁護人らが、

「公共企業体等労働関係法(以下公労法という)一七条は、公共企業体等の職員の組合から争議権を剥奪しているが、右規定は日本国憲法(以下憲法という)二八条に違反し無効な規定である。従つて、公共企業体等の職員組合が公労法一七条に違反して争議行為を行つても違法な争議となるものではない。仮に同法条の違憲論を別としても、右のごとき争議行為の刑事責任については、労働組合法(以下労組法という)一条二項の刑事免責の適用をうけるものである。

本件被告人らの所為は、国労本部の指令に基き警職法改正反対とその他当面する諸要求についての抗議の集団的意思表明を目的とし、新潟地本の組合活動として行なわれたものであるから、刑事上も正当である。

また政府与党が絶対多数の議席を利用し、権力をもつて憲法の精神を侵害し、憲法を危険にさらすような虞れのある場合、それを阻止するための抵抗は、破壊的な抵抗でない限りむしろ国民としての憲法を守る義務に基くものでかかる場合は政治ストと雖も違法ではない。」

旨を主張したのにたいし、裁判所は次のとおり判断をしたものである。

「1 まず、被告人桑原時男、同北沢勝、同渡辺栄次郎の判示Aの第二の二の(1)ないし(3)の行為が、前判示のとおりいずれも警職法改正反対抗議を主目的とし、これに賃金改正については仲裁裁定の完全実施、年末手当に関する要求をも含め、これが意思表示のため、国労本部の決議、国労新潟地本の指令に基いてなされた三時間の勤務時間内職場集会、および右集会を効果あらしめるための弥彦線南部二八号転換器附近のピケッティングに附随して生じた事件であつて、右勤務時間内職場集会という統一行動は、国労の組織行動として国鉄当局側の管理意思に反して職員が職場を離脱し、所定の執務をせず、国鉄の正常な運営を阻害するものであるから、所謂争議行為に該当するものであり、右争議行為は警職法改正反対という国家機関に対する法律案通過反対の意思表示に向けられた所謂政治的抗議ストと認めざるを得ない。国労においては右第四次統一行動に際し仲裁裁定の完全実施、年末手当要求等経済目的をも掲げていたが、この要求は右のような警職法改正反対第四次統一行動という主目的が決定され、その行動の実行に際して全く附随的になされ、その比重は極めて小さかつたものと認められるものであるから、これをもつて使用者に対する主張要求をめぐつてなされる一般の争議行為(所謂経済スト)と同一視することはできず、本件争議行為は警職法改正反対という政治的意思の表示を目的とする政治的抗議ストと評価せざるを得ない。

2 ところで、公労法一七条は、公共企業体等の職員およびその組合に対し、目的の如何を問わず同盟罷業、怠業、その他業務の正常な運営を阻害する一切の行為を禁止しているから、同法条に違反してなされた争議行為について労組法一条二項の適用があるかどうかがまず問題となるが、労働組合の団体交渉その他の行為が労働法上の保護をうけ得るためには、その目的において、労組法一条一項、二条、公共企業体等の場合には更に公労法八条等の規定により、労働者の経済的地位の向上を主目的とし、使用者において法律的ないし事実的に処理し得る事項に属する限度のものでなければならないところ、所謂政治ストの場合には右の目的を欠くから、労組法一条二項、従つて刑法三五条の適用はないといわざるを得ない(この点では国労も一般労組の場合と同一であり、国労の場合には特に公労法一七条をその理由とするものではないから、同法条が憲法二八条に違反するかどうかについて、また同法条違反の経済ストの場合は労組法一条二項の適用があるかどうかについては、本件に関係がないので特に判断をしない。)

しかしながら、所謂政治ストは、通常目的が政治的措置要求か、政治的抗議ないし示威であるか、強制の強度が継続的な集団就労放棄か、一時的な就労放棄かにより、所謂政治闘争スト(真正政治スト)と政治的抗議(示威)ストに区別されているが、いずれにせよそれが労使の団体交渉によつては解決できない事項の実現のためになされ、使用者に対し、右争議行為から生じる結果の甘受を強いるという点で明確に一般の経済ストと異り、通常労働法上違法とされ、従つて労組法一条二項等の労働法上の保護はうけ得ず、刑法三六条による刑事免責をもうけ得ないものであること前説示のとおりであるが、政治ストであることを理由に、かかる争議行為(としてなされた犯罪構成要件充足行為)をすべて刑事上においても当然可罰的行為であると評価しなければならない理由は存しない。すなわち、労働組合の争議行為等の団体行動が労働法上の規範に違反することにより労働法上違法とされる場合であつても、この違法は当該労働法規範囲内で違法とされるにすぎず、労働法秩序を含めて、社会一般の法秩序全般から、争議行為の全体としての違法性(行為の実質的違法性)を問題とする刑法上の違法判断からは、なお適法の判断を加える余地は存すると言わねばならない。特に弁護人主張のごとく、本件政治ストが現憲法秩序を侵害する虞れのある公権力(政府与党の政治権力)の行使と言う緊急状態のもとで、これに対する抗議として敢行された場合には、(イ)その理由の当否のほか、(ロ)憲法一二条に所謂国民の憲法保持義務(弁護人の主張する「抵抗権」)、(ハ)民主主義体制下における三権分立および議会主義の理念に対する充分なる理解と配慮のもとに、緊急状態の態様程度と対比し、問題の政治ストの態様程度が、民主主義的法治国家として許容し難い高度の良俗違反としての非難に価すると認められない限り、刑事上、自救行為、正当防衛、緊急避難等の要件を具有しない場合であつても、なお社会的相当な行為として適法の判断を加える余地は存すると言わねばならない(なお、附言すると、前記(イ)の理由の当否については、三権分立に基く司法権の限界から、現在審議中の法案の場合にはその当否の判断は問題となるが、警職法改正案は既に廃案となつていること公知の事実であるから、かかる場合には必ずしも三権分立の理念に反するものではないと考える。)

3 これを本件について考察するに、被告人らが本件統一行動をとるに至つた窮極の動機、目的は、右のとおり、政府提出の警職法改正案に対する反対、抗議であつたが、我国の過去の労働運動の歴史、行政機関における労働運動に対する無理解、改正案の内容を顧慮するとき、改正案の内容そのものが直接労働運動の弾圧や基本的人権の侵害を規定したものではなかつたにしても、その運用如何によつては現行警職法に比し労働運動、言論、集会の自由等基本的人権を侵害するに至る危険が生じ得る虞れのあつたことは否めないところであり、た右改正案成立に対する政府の態度、国会における審議状況等を綜合勘案するとき、被告人らが右改正案に対し反対意思の表明を意図したことは何等非難されることではない。

しかしながら、前判示の警職法改正反対示威行動は、単なる自由な職場集会或は示威行動に止まらず、たとえ右示威の意思を内外に強く表明するためとは言え前認定のとおり、国鉄東三条駅の転換器を数十名の集団の力で次々と占拠して国鉄当局の列車の正常な運行を一時的にせよ不能に陥れ、当局側の排除行為に対し実力を以て対抗したもので、前記改正法案が未だ法案審議の段階で、その違法性も将来における運用上のもので、必ずしも客観的に明白であるとは言い難いことと対比し、右統一行動(政治スト)は少くとも結果的には民主主議的法治国家として許容し難い高度の良俗違反としての非難を免れないと言わねばならない。ところで被告人らの本件各所為は、右統一行動における前判示弥彦線第二八号転換器の占拠のためにする意図を以てなされたものであること明白であり、刑事上違法性を阻却さるべき行為には該当しないものと解すべきであるから、弁護人らの右主張は採用しない。」

この裁判例は、本件政治ストが、公労法違反の争議行為であつても、「現憲法秩序を侵害する虞れのある公権力(政府与党の政治権力)の行使と言う緊急状態状態のもとで」「これに対する抗議」として敢行された場合には

(イ) その理由の当否

(ロ) 憲法一二条に所謂国民の憲法保持義務

(ハ) 民主主義体制下における三権分立および議会主義の理念

に対する充分なる理解と配慮のもとに

「緊急状態の態様と対比し、問題の政治ストの態様程度が、民主主義的法治国家として許容し難い高度の良俗違反としての非難に価すると認められない限り」政治ストも「刑事上、自救行為、正当防衛、緊急避難等の要件を具有しない場合であつてもなお社会的相当な行為として適法の判断を加える余地は存すると言わねばならない」と明言している。ここでは「社会的相当な行為」という表現を用いていることが特に興味をひく。政治ストが、事案における偶然的事情により違法性を阻却するというのではなく、一定の要件のもとに――それは「民主主義的法治国家として許容し難い高度の良俗違反としての非難に価すると認められないこと」の解釈により相当厳しくもなるわけであるが――「抗議スト」という類型をみとめ、これを構成要件該当性阻却のパターンとしようとする努力とみられるのである。

五、抗議ストの社会的相当性

すでにあきらかにしたように、わがくにの労働組合は、多数の政治的目的による争議行為を行つてきた。これに対して、労働法学の多数説は、合法説であり、限られた少数の学者の違法説があるのみである。判例は、西独労働裁判所の判例には、新聞スト、すなわち西独の新聞印刷労働者が一九五二年経営組織法案の上程を労働関係法規改悪であり一九二〇年経営協議会法による労使の共同決定の既得権を侵害するものであるとしてなした二日間の抗議ゼネストに対して、民事上合法であるとし、したがつて刑事上はもちろん合法であることをあきらかにしたものがあり、わがくにの下級審判例には、少数ながら、その理由中に政治的目的による争議行為のうち、抗議ストについては、法益衡量の上正当性を認め得る場合があるとしたものがある。

全逓中郵判決(大法廷41.10.26)は、傍論において、

「争議行為が刑事制裁の対象とならないのは、右の限度においてであつて、もし争議行為が労組法一条一項の目的のためでなくして政治的目的のために行なわれたような場合であるとか、暴力を伴う場合であるとか、社会の通念に照らして不当に長期に及ぶときのように国民生活に重大な障害をもたらす場合には、憲法二八条に保障された争議行為としての正当性の限界をこえるもので、刑事制裁を免れないといわなければならない。」

と判示した。

この判示部分は、全逓中郵判決の理由のうちで、最も、学界の論議を呼びかつ、差戻審からも、右基準の意味内容を明確にすることは困難であつた旨違例の告白を表明された箇所である。(註一)

考えてみれば、最高裁の前記基準の如きものを、実定法上の根拠もなく定立することは、きわめて疑問としなければならない。また、かりにこれを定立する必要があるばあいには、もつと限定された明確な基準を定立するのでなければ、それ自体憲法三一条に違背することとなろう。

第二八条の労働者の権利が、労働者の労働条件の維持や改善、労働者の経済的地位の向上を直接の目的として認められるものであることは、一応は明らかであろう。しかし、経済的地位の向上ということは、単に経済という狭い範囲のみでは実現できるものではなく、現代において、経済と政治との関連は不可分であるともいえよう。そこに労働者のストライキが、いわゆる政治ストの面を持つという現象も生ずるのである。

判例によれば、「勤労者の労働条件を適正に維持しこれを改善することは、勤労者自身に対して一層健康で文化的な生活への途を開くばかりでなく、その勤労意欲を高め一国産業の興隆に寄与する所以である。然るに勤労者がその労働条件を適正に維持改善しようとしても、個別的にその使用者である企業者に対立していたのでは、一般に企業者の有する経済的実力に圧倒せられ対等の立場においてその利益を主張しこれを貫徹することは困難なのである。されば勤労者は公共の福祉に反しない限度において、多数団結して労働組合等を結成し、その団結の威力を利用し必要な団体行動をなすことによつて適正な労働条件の維持改善を計らなければならない必要があるのである。

憲法第二八条はこの趣旨において、企業者対勤労者すなわち使用者対被使用者というような関係に立つものの間において、経済上の弱者である勤労者のために団結権乃至団体行動権を保障したものに外ならない」(最判昭和二四・五・一八刑集三巻六号七七二頁)。

右の判例では、経済的実力者である企業者にたいする経済上の弱者である勤労者の労働条件の改善が目的とされ、しかもその勤労者は、使用者対被使用者という関係にあるものに限定されているから、これを厳格に解すれば、勤労者の団体行動権の範囲も、当然、企業内の経済的なものにかぎられ、企業の枠をこえ、経済的以外の目的をもつたストライキは、憲法第二八条の範囲を逸脱するということになる。

しかしながら、第二八条の制定の趣旨が、勤労者の経済的な弱さだけを救うものであり、しかも、それが一企業内に限定して考えられるべきであるという立論の根拠はあいまいである。判例はそのようにも解釈できるが、そう理解しなければならないほど、きゆうくつではないとも解釈しうる。資本主義社会において、生産手段をもたず、自らの唯一の財産である労働力を提供し、その対価として賃金をえて生活している勤労者は、「一般に企業者の有する経済的実力に圧倒せられ」経済的に弱者であることはもちろんであるが、政治的にも弱者であり、文化的にめぐまれていないことも否定できない。国民一般ではなく、その一部である勤労者だけに憲法第二八条の諸権利がみとめなれているということは、憲法第二五条が国民一般にみとめているいわゆる生存権の具体化として、とくに「勤労者自身に対して一層健康で文化的な生活への途を開」いているだけでけでなく、第二九条で、財産権の不可侵をみとめながらも、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める」(第二項)とし、「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のため用いることができる」(第三項)と規定されていることによつて、現実的な保障をえているのである。すなわち、勤労者に団結権、団体行動権等をみとめることによつて、現実にもつとも厳しく衡突するのは、資本家の財産権である。第二九条で制限された財産権の社会的意義は、けつして私有財産一般ではなく、私有財産制度、およびそれを動かしている資本家階級の活動一般の制限にある。だから第二九条の制限の理由とされる、「公共の福祉」にせよ、「正当」の判断にせよ、けつして経済的理由にかぎられるものではない。

資本家・企業者と勤労者・労働者の対抗関係は、基本的には経済関係であるが、それにとどまるものではない。このことは、イギリス、フランス等資本主義的先進諸国の労働運動の歴史がわれわれにはつきりと示している。憲法で、あるいは、法律で勤労者の団体行動権等がみとめられるためには、立法改革、社会改革を目指した、すなわち、経済目的に限定されない労働運動がつねに先行している。日本でも、戦前の労働運動を考えにいれるなら、このことは例外ではない。憲法は、資本家と勤労者の不平等な地位に着目し、勤労者の経済的・政治的・文化的等の劣悪な状態を改善するために、団結および団体行動権等の諸権利をみとめたと解せられる。これらの諸権利なしでは、勤労者はその地位を改善するどころか、その生存さえ維持することができなかつた。第二八条を、勤労者の生存権を保障するための手段とみる学説があるのはそのためである。

このような立場から、前記判例を読み直してみると、使用者対被使用者という関係にある勤労者には、通常の企業内の勤労者――工場労働者、事務職員等――だけでなく、農業労働者はもちろん、地主との関係における小作農、船主にたいする漁民、国・地方公共団体にたいする公務員等、要するになんらかの労働条件の改善を要求しうる相手方をもつ一切の勤労者が入りうるとも考えられる。団体行動権を行使する主体である勤労者を、判例が示すように団結した団体としてみると、その団体の構成員として、使用者対被使用者の関係にないものが一部存在しても、それによつて他の勤労者がすべて第二八条の「勤労者」のあつかいをうけなくなるというようなことは考えられない。団体の構成は団体自身がきめるべきことであり、第三者がこれに干渉することは原則として許されないし、まして相手方がこれに干渉することは絶対に許せないのである。

そしてさらに、使用者対被使用者という関係を、労働運動等との関係で考えると、日本では企業別組合が多いから、一企業内の使用者対被使用者に限定されがちであるけれども、産業別組合が原則である場合には、個々の企業別労働組合ではなく、同種産業別の組合連合体が使用者の団体と対決しており、さらに、労働組合の企業、産業を超えた全国的統一が成功するならば、それは資本家の全国的組織に対決することになる。このような労働運動の現実のあり方に応じて、ストライキの形態は変化せざるをえない。そうでなければ、勤労者のいかなる要求も実現しはしないであろう。したがつて、中心においては経済的な要求といえども、それを達成するためには、政治的手段をとらざるをえなくなる場合がありうるのである。とくに、政府が、資本家階級を代表して、立法的・行政的手段をつうじて勤労者を圧迫し、その生活状態を劣悪にしているというようなことがおこれば、労働運動の政治化は必然的である。したがつて、ストライキのスローガンに、「警職法反対」とか「再軍備反対」という一項目が入つていても、それだけでそのストライキが全体として憲法第二八条の範囲を逸脱しているというわけにはいかなくなる。それらが主目的であつても、第二八条の範囲内だということもありうるのである。

憲法第二八条がみとめている勤労者の諸権利は、いわゆる社会的権利であつて、いわゆる自由権的基本権とはちがうし、また、社会主義的権利でもありえない。というのは、勤労者の諸権利がみとめられているのは、国民個人としてよりも、勤労者個人として、および、勤労者の団結体としてであり、古典的な資本主義のあり方に大きな修正をほどこすものではあるが、結局は資本主義の枠内で、しかも資本家と対等の地位に団結した勤労者が達するまでであつて、それらの権利は、国民的基盤にたつ(勤労者の特権はみとめない)議会主義そのものを無視したり、資本主義制度を打倒する手段としてみとめられているわけではない。したがつて、ストライキがもつぱな政治的・社会的革命の手段として用いられるならば、それは、憲法第二八条の範囲を逸脱しているということができる。しかし、憲法上の諸原則・諸制度に矛盾しない範囲でならば、ストライキがかりに政治的になつても、それが政治的であるという理由だけで悪いということになるはずはない。

さらに言えることは、何が政治ストであるかは、ボーダーラインに近ずくと決して明確でないということである。

労働組合が、かつて、八時間労働制のために斗つたこと、今日、週二日休日制確立のため斗うこと、日の当たらない低辺労働者を浮上させる最低賃金法のために斗うこと、ILO八七号条約批準のため斗い成果をあげ、ついで一〇五号条約批準のために斗つていること、労働組合法・労働関係調整法・労働基準法等改悪反対のために斗つてき、今後も斗うこと、組合活動の自由を規制する警察官職務執行法改悪反対のために斗つたこと等についてはいずれも労働組合の団体行動として何人も是認できること、もつとわかりやすい例をあげると、炭労が昨今石炭産業政策の確立を求めて斗つていることについては、資本家側でも共感の風すらあるほどに是認されてるのに、これらを十巴一からげに、政治スト違法論の枠の中に入れることが妥当であろうか。以上列挙の目的を有する争議行為は経済目的と不離一体でありこれを違法視することが不可能であることは、国際世論であり(西独新聞ストの例をみよ)わがくにとしても、憲法二八条の労働基本権の法制のもとで、勤労国民に浸透している社会通念であると言えよう。すなわち、前記列挙の争議行為は、現在のわがくににおいて、社会的相当行為として、構成要件該当性を欠くものであり、不可罰行為として世論の承認を得ていると断定せざるを得ない。

政治的ストライキのうちには、現在の憲法秩序の破壊を目的とし、政府のてんぷくを目的とし、革命手段として、なす高度の政治的ゼネストも含まれる。このような革命的政治行動そのものである政治的ゼネストが、憲法二八条の保障の範囲外であることについては、いささかの異論もない。

それと異り、前記列挙の争議行為の類型は、個々の企業の枠を越えたものであるとはいえ、ほんらいの経済目的を実現するための前提として、必然的に関連する不可分一体の政治的経済的問題の解決を目的とする行為であり、体制の枠内の合理的な団体行動である。

講学上、この範疇に属する争議行為は「抗議スト」と呼ばれている。示威ストとも呼ばれることがある。

労働組合員は、最低賃金法獲得闘争や労働法規改悪反対闘争および警職法改悪反対闘争のばあい、これらが企業の枠を越えていることは承知しているのであるが、企業の内外の全労働者の福祉のために、保守政権の最低賃金法案や労働法規等改悪法案に反対し、保守反動の政府・資本家に抗議の意思表示をなす目的でこれを行うことに規範意識を燃やし、その社会的相当性を実感するものである。

現在の日本国憲法が施行された昭和二二年五月三日当時、労使間を規律していた旧労働組合法(昭和二〇年法律五一号)には、

第一条 (法の目的、刑罰法令濫用の禁止)

① 本法ハ団結権ノ保障及団体交渉権ノ保護助成ニ依リ勤労者ノ地位ノ向上ヲ図リ経済ノ興隆ニ寄与スルコトヲ以テ目的トス

② 刑法第三十五条ノ目的ハ労働組合ノ団体交渉其ノ他ノ行為ニシテ前項ニ掲ゲル目的ヲ達スル為為シタル正当ナルモノニ付適用アルモノトス

と規定されていた。当時、同法第四条に列挙された「警察官吏」「消防職員」「監獄ニ於テ勤動スル者」を除き、それ以外の勤労者には、団結権および団体行動権の制限がなかつた。したがつて、公務員労働者は、民間労働者同様、「労働者ノ地位ノ向上」のため、前記列挙の抗議スト、示威ストを自由に行い得たのであつた。そして、日本国憲法が施行されたことにより、二八条によつて、これら労働者の既得権たる団体行動が保障されたものであることは、疑を容れる余地がない。

したがつて、憲法二八条のもとにおいて、この類型の抗議ストは、ほんらい、社会的相当行為として承認され、保障されていたと言える。

その後の労働基本権制限の具体的態様についてみると、

昭和二三年七月三一日政令第二〇一号が制定されるまでは、国家公務員や地方公務員も、一定の職員を除いて、一般の勤労者と同様に、団結権・団体交渉権・争議権等について制限されることなく、争議行為も許されていた。政令第二〇一号の制定施行によつて、公務員は、国家公務員たると地方公務員たるとを問わず、何人も同盟罷業、怠業はもちろん、国または地方公共団体の業務の運営能率を阻害する一切の争議行為を禁止され、これに違反した者は、刑罰を科せられることになつた。しかし、昭和二三年一二月三日改正施行された国家公務員法では、一切の争議行為が禁止されたことは右の政令と同様であるが、たんに争議行為に参加したにすぎない者は処罰されることがなく、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、もしくはあおり、またはこれらの行為を企てた者だけが処罰されることになつた(昭和四〇年法律第六九号による改正前の国家公務員法九八条五項、一一〇条一項一七号、なお、地方公務員法三七条一項、六一条四号参照)。

以上の関係法令の制定改廃の経過に徴すると、国家公務員改定のばあい、争議行為不可罰の原則が貫かれておるので、可罰性の認められる「あおり」行為等については、すでに大法廷判例(44.4.2)で示された合憲的制限解釈をほどこし、国家公務員の組合の役員が争議行為の通常随伴行為としてのあおり行為等の類型行為をしても、これには争議行為不可罰の原則を適用し、その社会的相当性を認めることが法の趣旨であると言える。

(註一) 中郵判決のうちで、この部分が最も理解困難の箇所であり、最高裁は立法したと批難される箇所でもある。現に、右上告判決で差戻された東京高裁差戻判決(東京高刑一一部42.9.6判決・昭和四一年(う)第二六〇五号)は、つぎのとおり、悪戦苦斗を表明し、右基準の意味内容を全面的に明確にすることは困難であつた旨告白している。

「四、そこで、先ず、本件の右争議行為が前記(イ)のような「労組法一条一項の目的のためでなくして政治的目的のために行なわれた場合」に該当するかどうかについて、考察する。

前記大法廷判決が労組法第一条第二項の適用排を除すべき場合に関する基準の一つとして掲げる右(イ)の「……政治的目的のために行なわれたような場合」というのは、必ずしも弁護人所論のように当該争議行為が日本国憲法の予定する政治機構即ち議会制民主主義を破壊する目的で行なわれるというような場合に限定されるべきものではないが、さればといつて、その争議行為の掲げる要求項目の中に苟しくも政治にわたる事項があればこれに該当するというわけのものではなく、たとえ経済的な要求事項と併せて政治的な要求事項を掲げているときであつても、右政治的な事項が争議行為の主たる目的ではなく、単に争議行為の機会を利用して政治的な意見ないし要求を表明しているに過ぎないような場合、さらに言葉を換えていえば、右政治的な事項も主張はするが、それが全面的若しくは部分的にも容れられない限り争議行為を中止しないというほどの強大な比重を占めていないような場合は、これに該当しないものと解するのが相当である。

本件の場合について観ると、押収にかかる「指令指示集」(当庁昭和三七年押第六入七号の一〇)等の中に存する「指令第三七号」によれば、昭和三三年春季闘争の目標は全逓第一六回中央委員会の決定に基づく要求事項の解決を図ることにあるとされており、そして、押収にかかる「第一六回中央委員会速報」「第一六回中央委員会議案報告書」「斗いの旗の下に」(同押号の二一、二二、二八)及び当審証人下村義美(当時全逓中央本部企画部長、現在全逓副委員長)の供述等によれば、右第一六回中央委員会で決定された要求事項は(一)新賃金二、四〇〇円増額の闘い(二)最低賃金法制定の闘い(三)不当処分撤回、スト権奪還の闘い(四)特定局制度撤廃の闘い等七項目に及んでいることが明らかであつて、右のうち純粋に経済的なものと認められるのは(一)のみであり、他は多かれ少かれ政治的なかかわりあいを持ち、殊に(三)は純粋に政治的な要求事項と認めることができる。しかし、右証人下村義美の供述に徴すれば、右春季闘争の一環として行なわれた本件争議行為の中心的な目標とされていたのは右(一)の二、四〇〇円の賃金引上げという事項であり、現に公労委(公共企業体等労働委員会)に対し調停の申請がなされたのも同事項のみについてであり、他の事項は、右争議行為の当時においては、すでに一応解決され(例えば(四)の問題)或いは将来の交渉に持ち込むということ(例えば(二)の問題その他結婚資金、退職年金制等の問題)で、いずれもこれを闘争目標から除外し得る情勢にあつたのであつて、結局右争議行為にかけられていた要求事項は右(一)の二、四〇〇円の賃上げという経済的なもののみであつたと認めることできる。

他方、押収にかかる「事前警告文」大、小各一部(同押号の三九)によれば、使用者側たる東京郵政局長等においても、本件争議行為の主たる目的は右(一)の賃上げという事項に存するものと受け取つていたこと、が窺われる。以上考察したとおり、本件争議行為は、経済的な要求事項のほか、多かれ少かれ政治にわたるいろいろな要求事項を掲げてはいるが、後者は争議行為の命運を決するほどの切実重大な意味あいを持つものではなかつたと認められるから、前段説示の見解に照らし右争議行為は前記(イ)にいわゆる「……政治的目的のために行なわれたような場合」に該当しないものというべきである。」(五、省略)

「六、最後に、本件争議行為が前記(ハ)の「社会の通念に照らして不当に長期に及ぶときのように国民生活に重大な障害をもたらす場合」に該当するかどうかについて、考察する。

先に、四、五で論じた前記(イ)(ロ)の基準は、その内容に関して意見の対立が見られるほか、それ自体としては今日の通説的見解上当然のこととされているところであり、特に疑義を挿む余地も存しないが、右(ハ)の「……国民生活に重大な障害をもたらす」か否かを公労法第三条、労組法第一条第二項の適用基準とすることは、右大法廷判決によつて初めて打ち出された見解であつて、その内容自体も、概括的抽象的であるため、その明確な意味を把握することが困難である。又、このような基準を新たに提示するに至つた論拠も、関係部分(理由の五)は勿論、全体の判文上からも明らかでないため、この面からその意味内容を確定するための手がかりを得ることも困難である。

このようなわけで、当裁判所としては、先ず、刑事法規の適用基準として本来厳格性を要求される右(ハ)の基準の意味内容を明らかにするため、判文を各方面から仔細に検討し、そのよつて立つ論拠を探究し、或いは問題点を吟味しつつ、何らかの手がかりを見出すよう努力を重ねたのであるが、結局において、その明確な意味内容を把握するのに大きな困惑を感ぜざるを得なかつた。

しかし、それはそれとして、本件の差戻を受けた当裁判所は、その立場上、右大法廷判決の示すところに従い、ともかくも右(ハ)の基準の意味内容を探り、同基準に照らして本件犯罪の成否を判定しなければならない。

少くとも、同判決のいうところに従えば、刑事法上から職員に許される争議行為は、「その義務の停廃が……国民生活に重大な障害をもたらすおそれがある」ものとしてある程度の効果を伴うものであつてもよろしいが(そうでなければ、効果のない争議行為だけしか許されないというおかしなことになる)、現実に「国民生活に重大な障害をもたらす」程度に達してはならないという、極めて微妙なものとならざるを得ない。これでは、刑事法上このような争議行為を許されることになつた公企体職員自身が、その程度の選択に迷わざるを得ないであろう。当裁判所も亦、同判決の真意が何処に存するかを、的確には補捉することができない。ただ、わずかに、右基準が、公企体職員の争議行為に刑事免責を与えるという原則に対する例外の場合に関するものであつて、実質的に右原則の内容を減縮するものではあつても、これを空洞化してしまうほどのものではあり得ないという常識的な考え方、即ち、これら職員が右原則に従い刑事制裁を受けないで争議行為をなし得べき領域も、ある程度の幅をもつて保留されているとの考え方を、拠り所の一つとして、本件犯罪の成否を判定することにしたい。

次に、右基準の意味内容を、その「国民生活に重大な障害をもたらす場合」という字義そのものについて考えてみると。その例示として「社会の通念に照らして不当に長期に及ぶとき」ということが挙げられているが、その他の例として、その争議行為が全国一斉若しくはこれと同じような規模において行なわれるときとか、或いはそうでなくても広範囲にわたり且つ長期に及ぶ(必ずしも社会通念上不当に長期に及ばないときも含む)ときとか、或いは広範囲且つ長期にわたらなくても国民の一部に私生活上取り返しのつかないような深刻な障害を与えるときなどが、考えられる。さらに、国政(外交、防衛、治安等を含む)、地方行政、国民生活上重要な国際若しくは国内の経済取引等に対する障害が、ときによつてはこれに該当することも、考慮されるべきであろう。

先にも述べたとおり、右基準の意味内容を全面的に明確にすることは困難である。」

第五、「表現の自由」権の行使の観点からみた本件抗議ストの社会的相当性

一、抗議ストの社会的相当性の根拠の複合性

大法廷は、都教組勤評事件判決(44.4.2)において

「被告らは、いずれも都教組の執行委員長その他幹部たる組合員の地位において右指令の配布または趣旨伝達等の行為をしたというのであつて、これらの行為は、本件争議行為の一環として行なわれたものであるから、前示の組合員のする為議行為に通常随伴する行為にあたるものと解すべきであり、」

「これら被告人のした行為は、刑事罰をもつてのぞむ違法性を欠くものといわざるをえない。」

と判示しながら、同日行なわれた仙台安保六・四事件、判決(44.4.2)においては、

「本件職場大会についてみるに、当時、新安保条約に対する反対運動が憲法擁護のための国民運動として広く行なわれ、労働組合その他諸種の団体によつてもその運動が活発に行なわれており、本件職場大会も右運動の一環として行なわれたものであること所論のとおりである。」

事実を認定しながら

「裁判所の職員団体の本来の目的にかんがみれば、使用者たる国に対する経済的地位の維持、改善に直接関係があるとはいえない、このような政治的目的のために争議を行なうが如きは、争議行為の正当な範囲を逸脱するものとして許されるべきではなく、かつ、それが短時間のものであり、また、かりに暴力等を伴わないものとしても、裁判事務に従事する裁判所職員の職務の停廃をきたし、国民生活に重大な階碍をもたらすおそれのあるものであつて、かような争議行為は、違法性の強いものといわなければならない。」(上告趣意書第五点についての判断)

と判示した。

両判決は、おなじく公務員として、争議行為禁止の法制のもとで、争議行為を実行指導した者の、一方には、争議行為及通常随伴行為不可罰の原則を適用し、その者の行為を社会的相当行為と評価し、他方には、政治的目的を具有するのゆえに、通常随伴行為性を否定して、その者の行為を可罰的違法行為と評価し、客観的には、いずれも、公務員組合の役員のなす通常類型の争議随伴行為であるものを区別して、一方には構成要件該当性阻却をみとめ、他方には構成要件該当性をみとめるという、極端な結論をくだしたものである。

この判断は、国民の健全な常識に照して理解困難であり、そのために、二人の裁判官の少数意見が附加され、いずれも国公法九八条「争議行為」の趣旨および一一〇条一項一七号の構成要件該当性の縮少解釈について、多数意見未解明の領域をあきらかにすると共に、政治ストの構成要件該当性阻却の点をあきらかにした。

さきにすでに引用したが、裁判官入江俊郎の補足意見によれば、「例えば専ら政治的目的達成のための政治運動が、争議行為の形態を採つてなされたような場合には、そのような争議行為は、憲法二八条の保障とは無関係なものというべきであろう。しかし、私はそのような争議行為も実定法たる国公法上の争議行為という中には包含されていると思う。そしてたとえそのような場合であつても、そのあおり行為をした者が勤労者自身であれば、現行国公法が、その者のする右ののような争議行為自体に刑罰を科さない立前であるとすれば、それとの均衡上、右あおり行為等のみに刑罰をもつて臨むことは、それが右争議行為に通常随伴するものである限り、現行国公法の妥当な解釈の上から、許されないと解するのが相当ではないかと考える。」との判断を示され、

裁判官色川幸太郎の反対意見によれば、国公法九八条における「争議行為」の概念を問題とし、労働関係調整法七条の規定する「争議行為」の趣旨であるとして、精しく検討した上、いわゆる政治ストが国公法九八条にいう争議行為でないことは、既に論じたとおりであるから、国家公務員による政治的目的のための本件行為が可罰的であるかどうかは、国公法一一〇条一項一七号違反として起訴された本件においては、全く問題にならないのである。(この点については、憲法一五条二項に定める公務員の中立性と憲法二一条による市民としての表現の自由との関連において、国公法一〇二条、一一〇条一項一九号及び人事院規則一四―七の合憲性もしくはその適用の範囲が判断されなければならないのであるが、それは別途検討さるべきものであつて、今これを論ずる限りではない。(以上要するに、国公法九八条の「争議行為」に属しない本件職場大会のあおり行為に対し、同法一一〇条一項一七号の適用を是認した原審判決には、法律の解釈を誤つた違法があり、破棄を免れない」との判断を示された。

両裁判官の意見は、貴重な教訓を含んでいる。即ち色川裁判官は、政治的目的の職場集合は、本来、同法上の「争議行為」範疇に入らないから、憲法二一条「表現の自由」権の行使として、検討されるべきであることを主張され、入江裁判官は、政治的目的の職場集会も、ほんらい、同法条にいう「争議行為」に該当するとして解決された。

両裁判官の意見は、それぞれ、国公法事件を検討し抜いて到達した、集会不可罰の原則の発見であるが、とくに、貴重な収穫は、抗議ストの社会的相当性の根拠の複合性とも言うべき側面の発見である。

抗議ストは、集会である。これを、抗議ストとして、あくまで、古典的に、憲法二八条の保障を求めて進めば、その到達点の一は、入江説であろう。

しかし、「抗議スト」は単純なスト的構造ではない。それには、必らず、もう一つの側面である、国民の「表現の自由」権の行使としての集会の性格が複合する。したがつて、集会を行う者が、憲法二一条にもとずく「表現の自由」権の行使として、正当に行つたものであれば、それは権利の行使に外ならず、不可罰行為であり、社会的相当性を有することはあきらかであると言えよう。

多数説のように、政治ストの通常随伴行為を、たんに憲法二八条の保障が及ばないと解するだけでなく、さらにこれを可罰的違法行為として断定することは、抗議ストの有するもう一つの側面「集会」の構造分析し、憲法二一条「表現の自由」権の行使として社会的相当性を具えているか否かを検討した後でなければ、許されないと考える。

これを昭和三三年警職法改定反対の抗議ストの全貌についてみると、公知の資料である朝日新聞の特輯記事(33.11.23)によれば、昭和三三年秋、自民党政府が、抜討ち的に警察官職務執行法の改定を企画したとき、憲法の保障する自由権および労働基本権がこれによつて空洞化されてゆくことを憂え、心ある全国多数国民の反対運動がもり上り、その中核として労働者の抗議ストが行なわれ、かかる世論の影響で、同法改悪の企図が中止された経過が刻明に報道されている。

被告らの指導によつて為された抗議集会は、右報道にかかる全国的国民運動の一環であり、攻防五〇日の焦点の日である一一月五日に農林省構内の屋外でなされた集会であり、同省に勤務する全農林組合員らによつて為された国民の声たる「表現の自由」権の行使であつたと言えよう。

そして、攻防五〇日経過後、絶対多数をバックとし国民を無視した岸内閣の独走は、名もなき全国の国民の真実の声の前に屈したのである。そうしてみると、被告人らの集会と抗議の意思表示は、国民世論の承認のもとになされた義挙であつたと言えのである。心ある多数国民の期待を双肩に担つた全農林労働組合員らの本件抗議集会は、本人らの規範意識の点から申しても、世論の支持承認の点から申しても、国民の「表現の自由」権の行使として、社会的相当行為であることを、疑う余地がない。

二、「表現の自由」権の行使の観点からみた本件抗議ストの社会的相当性

昭和三三年暮、警察官職務執行法改正案問題が、稀にみる大規模な論議をまき起した。その際、焦点をあてられた主要な問題が、表現の自由とくに集会の自由に関する問題であつた。

現代日本においては、集会・集団行進等は、少数者の、政治的な目的達成のための適法なしかも重要な意思表現手段であることは否定できない。

集会・結社の自由は、明治憲法においてもその二九条によつて保障されていたが、他の基本的人権同様に、右憲法上の保障が法律の留保をともなつていたが故に、例えば、治安警察法、治安維持法、言論・出版・集会・結社等臨時取締法、同施行規則などの制定によつて全く有名無実のものになつてしまつていたことは周知のとおりである。

日本国憲法は「集会、結社……の自由は、これを保障する」と定め(二一条)、表現の自由といつしよに、集会・結社の自由を保障した、その自由は、旧憲法とは異り、法律の留保を許さない。集会の自由を保障するとは、公権力によつて、集会の自由に対して、制限を加えることを禁止する意である。憲法二一条の保障する集会の自由は、第一に多人数が集合・結合する行為それ自体につき国家権力の介入が排除されることを意味すること疑いない。第二にさらに、この集合を集じて団体としての意思を形成する自由、かくて形成された意思を表現し、その貫徹のために活動する自由をも含むものといわなければならない。つまり集団行動・集団示威運動の自由がこれである。判例はすべて、集会の自由の中に集団行進・集団示威運動の自由が含まれることを疑わない。

最高刑昭和二九年一一月二四日刑集八巻一一号一八六頁

「行列行進または公衆の示威運動は、公共の福祉に反するような不当な目的又は方法によらないかぎり、本来国民の自由とするところであるから、条例においてこれらの行動につき単なる届出制を定めることは格別、そうでなく、一般的な許可制を定めてこれを事前に抑制することは、憲法の趣旨に反し許されないと解するを相当とする。」

昭和三三年五月六日東京地裁刑事一〇部判決、判例時報一四八号。

「表現の自由はその本質上専ら他人の存在を前提とし、その手段方法の如何によつては他人の基本的人権と衝突する可能性を調整する原理としての公共の福祉の見地からの制約を免れないものであつて、憲法第一三条の規定に照し右の観点からこれを規制することも亦可能としなければならない……。

これらの〔集団行進的〕行動につき、公共の福祉に反するような不当な目的又は方法により、これを濫用するものでないかぎり、地方自治体が条例において一般的な許可制を定めてこれを事前に抑制することは憲法の趣旨に反して許されないものと解せられる。」

本件抗議ストは、道路上や公共施設内でなされず、農林省職員たる全農林組合員により、構内で屋外で為されたので、かかる非公共集会については、一般公共になんらかの影響をおよぼす可能性は少いから、公権力による制限をみとめる余地はほんらい無く、不可罰性の行為であることは自明であり、社会的相当行為に該当するのである。

現に、同日、国鉄労組員が新潟県東三条駅構内で行つた抗議ストについて、前掲の新潟地裁判決(39.10.26)は、

「被告人らが本件統一行動をとるに至つた窮極の動機、目的は、右のとおり、政府提出の警職法改正案に対する反対、抗議であつたが、我国の過去の労働運動の歴史、行政機関における労働運動に対する無理解、改正案の内容を顧慮するとき、改正案の内容そのものが直接労働運動の弾圧や基本的人権の侵害を規定したものではなかつたにしても、その運用如何によつては現行警職法に比し労働運動、言論、集会の自由等基本的人権を侵害するに至る危険が生じ得る虞のあつたことは否めないところであり、また右改正案成立に対する政府の態度、国会における審議状況等を綜合勘案するとき、被告人らが右改正案に対し反対意見の表明を意図したことは何等非難されることではない。」

と判示し、本件抗議ストと目的を同じくする集会の社会的相当性を是認したところである。

三、煽動罪の憲法適合性の審査

原判決の適用法条たる国公法一一〇条一項一七号の構造は、独立罪たる煽動罪である。

しかも、憲法二一条が保障する「表現の自由」である「集会」という適法行為を「あおり」等することを罰することを目的とする罰則である。したがつて、かかる罰則は、憲法三一条および二一条にもとずいて、その憲法適合性が審査されなければならない。

さて、煽動は、「人ヲ教唆シテ犯罪ヲ実行セシメタル」(刑法六一条一項)ことを要件とする教唆とちがつて、古典刑法にみられない犯罪類型である。煽動罪規定の源流である治安警察法、新聞紙法、国防保安法、治安維持法、労働争議調停法などは、廃止されている。

特別刑法によつて煽動を処罰する規定をうけているものに、食糧緊急措置令一一条、爆発物取締規則四条、公職選挙法二三四条、国家公務員法九八条二項、同一一〇条一項一七号、地方公務員法三七条一項、同六一条四号があり、破壊活動防止法三八・三九・四〇条がある。

煽動の定義如何は、治安維持法にかんする次のような大審院判決を暗黙のうちに承認し、前提しているのであろう。

「……煽動トハ他人ニ対シテ中正ノ判断ヲ失シテ実行ノ決意ヲ創造セシメ又ハ既存ノ決意ヲ助長セシムヘキ勢力ヲ有スル刺戟ヲ与フルコトヲ指称シ其ノ煽動罪ハ煽動行為アルニヨリ成立シ必ラスシモ相手方ニ於テ其ノ結果ヲ惹起スルヲ用セサルモノトス」(大判昭和五・一一・四新聞三二一〇号一四頁)(最高昭和二九・四・二七刑集八巻四号五五五頁)

煽動罪は――独立教唆罪とともに――現代法に特有な犯罪類型であり卒直にいつて治安立法的な性格を具有するものと思われる。煽動罪の成立を限定する作業は、憲法の要請するところなのであつて、それと離れた当該法規の解釈適用それじたいの次元のものではない。このことは具体的に犯罪実行行為の危険性が全くない状況のもとでも犯罪煽動罪の成立を認めるような法規が、合憲たりうるかどうかを問題にしてみれば、わかるであろう。

煽動罪の違憲審査は、まず、食糧緊急措置令一一条の規定の憲法適否の判例によつて行なわれた。最近までこれがリーデイングケースとされてきた。

最高裁昭和二四年五月一八日大法廷判決、刑集三巻六号八三九頁

「新憲法の保障する言論の自由は、旧憲法の下において、日本臣民が『法律ノ範囲内ニ於テ』有した言論の自由とは異なり、立法によつても妄りに制限されないものであることは言うまでない。しかしながら国民はまた、新憲法が国民に保障する基本的人権を濫用してはならないのであつて常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負うのである(憲法一二条)。それ故新憲法下における言論の自由といえども、国民の無制約な恣意のままに許されるものではなく常に公共の福祉によつて調整されなければならぬのである。」

「所論のように、国民が政府の政策を批判し、その失政を攻撃することはその方法が公安を害せざる限り、言論その他一切の表現の自由に属するであろう。しかしながら、現今における貧困なる食糧事情の下に国家が国民全体の主要食糧確保するために制定した食糧管理法所期の目的の遂行を期するために定められたる同法の規定に基づく命令による主要食糧の政府に対する売渡しに関し、これを為さざることを煽動するが如きは、所論のように、政府の政策を批判し、その失策を攻撃するに止るものではなく、国民として負担する法律上の重要な義務の不履行を慫慂し、公共の福祉を害するものである。されば、かゝる所為は、新憲法の保障する言論の自由の限界を逸脱し、社会生活において道義的に責むべきものであるから、これを犯罪として処罰する法規は新憲法第二一条の条規に反するものではない。」

昭和三七年にいたり、地方公務員法六一条四号の煽動罪の憲法適否が問題とされた。

最高昭和二七・八・二九(小法廷)刑集六巻八号一〇五三頁

「地方公務員法三七条一項が、何人も地方公務員に対し怠業的行為を「そそのかし、若しくはあおつてはならない」と定め、同六一条四号がこれを罰則によつて担保していることが問題になつたばあい、最高裁判所は同法条の合憲性について、本判決を引用しながら「地方警察吏が怠業を行うことは法の禁ずるところであつて、かかる行為を慫慂するがごときは、憲法の保障する言論の自由の範囲を逸脱するものであることは前示大法廷の判例〔前記判決―引用者〕の趣旨に徴して明瞭であるといわなければならない。」

「尤もかかる慫慂によつても、怠業的行為の起る危険が全くないような場合には、犯罪を構成しないといわなければならない。」

栗山茂裁判官は補足意見

「『少くとも表現された言論が社会に対し実害を与える危険が充分に認められる程度』に達した場合のみ言論の自由の濫用として禁止さるべく『裁判所としては実害を与える危険が充分に認められるかどうかは、具体的事案において証拠によつて判断すべである』とのべ、さらに危険の有無は裁判所の職権証拠調によつてでなく、検察官の立証によつて、判断されるべきであると指摘している」

その後は、地公法六一条四号の煽動罪が、日教組勤評反対斗争に適用されるにいたり、多くの下級審判決で、憲法二八条による憲法適合性の審査が行なわれ、最終的には、大法廷判決(44.4.2)において、憲法三一条、二八条の観点から、いわゆる合憲的定解釈に統一された。

しかし、地公法六一条四号およびこれと同種の国公法一一〇条一項一七号の煽動罪を、憲法三一条二一条の観点から違憲審査する仕事は、今日に残されているのである。

四、国公法一一〇条一項一七号の罰則は、本件被告人らの行動に適用される限度において、憲法三一条および二一条に違反し、無効である。

この種の煽動罪は、その規定形式からみれば、全農林組合員たる職員が、憲法で保障されている「表現の自由」を行使したことを理由として、(イ)事前抑制の方法で、(ロ)すべての地位の公務員について一律に、(ハ)行為の効果としては公務員の身分保障を剥奪するだけでなく、さらに、これに刑罰を加える趣旨のものである。

しかし、「表現の自由」権は、いわゆる精神的自由権に属し、いわゆる経済的自由権に比して優越的地位を占め、その制限基準は一段と厳格であることを要し、たとえこれを制限する必要が存在するばあいにおいても、合理性の認められる必要最少限の範囲内にとどめることが要請され、憲法三一条および二一条の趣旨にもとずき、

(イ) 表現の自由に対する事前の制限は許されない。

(ロ) 表現の実質を考慮し、対立する社会的価値を衡量し、優越価値について「明白にして現在の危険」が認められるばあいに限り制限は許される。

(ハ) 制限の方法は、合理性の認められる必要最少限の範囲内にとどめられるので、より尠い制限の方法で優越価値保持の目的を達成し得るばあいには、これを超過する制限方法は許されない等の制限基準を挙げることができよう。

右の基準に照すと、この種の煽動罪の規定形式は、憲法三一条および二一条の趣旨に牴触し、違憲無効と判断せざるを得ない。

そこで、進んで、国家公務員法一一〇条一項一七号の立法事実を検討すると、この法条は、昭和二三年七月二三日付占領軍最高司令官の書簡の趣旨を実施するため、政令二〇一号が施行され、公共労働者の労働基本権が剥奪されたことに由来し、右書簡の趣旨を実現するため、昭和二三年法律二二二号の改正による条文であり、占領軍総司部の強い示唆により、国会による独自の審議の許されない状況下に作られたのである。昭和二七年四月二八日講和条約が発効し、占領統治が終り、わが国が自主性を回復後、占領管理法令について、廃止存続の措置が講じられたが、国公法については、法律の形式を採つていたため看過され、右法条についても検討がえられず、改廃の措置を講ぜられないまま、今日に至つた。

そこで、つぎのことが言える。右条文の立法事実は、占領軍総司令部が、終戦後の飢餓社会の窮乏とインフレの社会事情を背景とし、占領統治の治安維持のために日本国に立法させた法律であり、占領統治の必要から、(イ)事前抑制の方法で、(ロ)すべての地位の公務員について一律に、(ハ)行為の効果としては公務員の身分保障を剥奪するだけでなく、さらに、これに刑罰を加えた、極端な治安立法である。換言すれば、占領過程の治安対策こそ、この条文存在理由であり、主たる立法事実であるのである。

被告人らが本件行為をした昭和三三年一一月五日は、立法事実の年(昭和二三年七月)から満十年を経過しており、講和発効(27.4.28)からでも満六年を超過しており、それから今日までに、また、十一年が加わつた。

現今の日本は、日本国憲法の自主性回復期からすでに一七年を閲みし、立法事実が前提した「窮乏」社会をはるか以前に浮上し、今や、自由国家群中国民生産二位の実力に到達し、治安の安定度においても、イタリヤ・イギリス・西独を抜き、米国社会を目標として前進を続けている富める社会である。

かつての立法事実は、はるか以前に、完全に解消し去つたのに、消滅した立法事実を存在理由として、治安立法たる煽動罪が、合理性もないのに、依然として、その効力を主張している姿であると言える。

ここで、思をあらたにして、最高裁に期待したい。

最高裁は、占領中に占領管理の必要で施行された、国公法一一〇条一項一七号の煽動罪その他のいわゆる独立罪たる煽動罪の違憲審査権の行使について、過去において、いかなる実績を挙げておられるかを問いたい。

煽動罪の違憲審査のリーディングケースとされた大法廷判決(24.5.18)は、食糧緊急措置令一一条の規定する煽動罪について、占領下の窮乏社会の致命的食糧危機において供出米の拒否を煽動した行為に適用する限度において、同煽動罪の合憲判断をしたものである。その判文は、簡に過ぎるが、全国民が飢餓に直面しているばあいにおける被告人の煽動行為には、「明白にして現在の危険」の存在を感じ取つたものであり、判決の結果には、その限度で、合理性が認められる。

しかし、現在の事件として考え直したばあい、すでに往時の立法事実が消滅し繁栄社会に移行を遂げた現状において、裁判所は、果して、この種の煽動罪に対して、再び、合憲判断をなすべきであろうか、疑なきを得ない。

つぎに、小法廷判決(27.8.29)は、地公法六一条四号の規定する煽動罪について、敗戦による窮乏インフレ進行過程の治安維持を焦眉の急務とする社会事情のもとにおいて治安維持に専念していた地方警察吏に怠業的行為を煽動した行為に適用する限度において、同煽動罪の合憲判断をしたものである。判文のうちには、そのような煽動行為によつても被煽動者において、実行行為に出る可能性の全く存在しないばあいには罪とならない旨があきらかにされ、煽動行為が無害のばあいにおける同罪構成要件該当性の縮少解釈が行なわれ、合憲的制限解釈の先駆的判断となつた。

思うに、判旨は、我国の法制では、旧労働組合法のはじめから、警察・消防・監獄の公務員に限り、集団的労働関係を否定してきた伝統があることにかんがみ、これらの公務員が怠業的行為をすれば社会の存立自体を危くするとの法益衡量の上に立ち、この種の煽動行為に優越法益に対する「明白にして現在の危険」の実現力を認めた結果、その限度で、同煽動罪の合憲性を承認したものであろう。

しかし、判旨が煽動行為無害のばあいにおける煽動罪構成要件該当性の縮少解釈を承認したことは、先駆的な判断として貴重であつても、これは、「明白にして現在の危険」の要件の萠芽形態にすぎず、さらに、この判旨を深めることを要するものである。

その後において、最高裁判所が最近なしたことは、すでに述べたとおり、地公法六一条四号および国公法一一〇条一項一七号等の煽動罪を憲法二八条の観点から合憲的縮少解釈を為しとげたことである(大法廷44.4.2判決)。

さて、今後の最高裁に何を期待するかについて、述べよう。

以上の概観によつてわかるとおり、最高裁は、国公法一一〇条一項一七号の煽動罪の違憲審査について、いまだ大きな空白法域を残している。

なかんずく、憲法三一条および二一条の観点から、同煽動罪は、被告人らに適用する限度において、違憲無効であることの違憲審査を求める。

同煽動罪は、立法事実がすでに消滅し去つていることにかんがみ、(イ)表現の自由を独立の煽動罪という事前抑制形式で制限する点、(ロ)公務員のうちには、我国の法制上①警察・消防・監獄の公務員②およびいわゆる行政過程を担当する管理職公務員③行政過程に随伴する補助的事務を担当する一般職の公務員④現業公務員⑤単純労務職員等の段階があり、その者の勤務放棄が社会の存立に与える影響には段層があり、①②の者がこれをなすときは重大な影響があるのに、④⑤の者が為しても行政過程に何らの影響もなく、③の者がなすばあいには、軽微な代替可能の程度の影響しかなく、短時間のばあいは全く影響がないか、あつても事後短時間に回復可能であることが認められるのに、同煽動罪は一律にこれを禁止するものである点、(ハ)③の者がなしたばあいの行為の効果は、現行国公法により、その者の身分保障を剥奪され、要すれば、免職又は懲戒免職され、その地位を去らしめられることにより、完全に隔離防衛の目的を達し得るのに、この必要最少限の合理的制限を越えて刑事処分を行う点において、同煽動罪の違憲審査を求めるものである。

五、裁判所に対する要請

憲法事件の多くは、当事者双方の主張に含まれた社会的利益と無関係ではない。

「実際には、二つの社会的希望の間の衝突だ」(ホームズ判事)と言われている。

したがつて、どちらの希望が衡突の時点において、妥当かという社会問題と不可分である。

この可法過程は、論理的形式をとりながら、実際は、相争う政策考慮の選択を意味し、事件の解決のために、裁判所は、事実・社会関係の分析にもとづいて、選択の主権的特権を行使することが要請される。

摩擦を回避することなく、むしろ、権力分立に随伴する不可避の摩擦によつて、憲法の精神を護持し、被告人らの人権を守護することに徹底されたい。

以上

○昭和四三年(あ)第二七八〇号

被告人 鶴園哲夫

同 江田虎臣

同 中野優

同 西川恵夫

同 国井豪

全被告人連名の上告趣意(昭和四四年八月三〇日付)〈省略〉

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